2008年2月25日月曜日

少雪地帯の「雪かき」に見る当世コミュニティー考

南信州は雪が少ない。

南と冠するだけのことあってか、南北に長い信州のうちで最も少ない地域だ。
だから、「雪深い信濃の…」などの言葉は、当地には馴染まない。
「信州出身です」と自己紹介しておいてから、南信州の雪に関する特殊事情(?)を説明するのに苦労した記憶に事欠かない。

数年前のこと、何を間違ったか一晩で50cm超の積雪…ということが1日だけあった。
それとて、記録によれば私が生まれてこの方、2度目のタイ記録だったそうな。
折角なら1cmでも記録更新して欲しかった。

昨年などは1月7日、当地の行政が主導する成人式当日が雪に見舞われた記憶だ。
ただし、全国的な暖冬傾向のこともあってだろう、昨冬に降雪の記憶はこの日だけだった。

晴れ着を装った娘の写真のうちの1枚は、ボタン雪降る神社の鳥居の前で、紅の蛇の目笠の中だった。
娘もカメラマンも背景という意味においては、稀にみる絶好の材料を得たものだと思う。

ここまでは余談として許されよ。


さて、今年は平年並の雪。
記憶では、昨年末に名古屋からブログ仲間が訪れたときと、今年になって3回、計4回の降雪だ。
昨年中の1回は、さほどでもなかったが、あとの3回は雪かきが必要だった。

ここで申し上げたいのは、その雪かきのことだ。

私が幼い頃の記憶では、まだ若かった父母が、少しでも雪が積もれば雪かきをしていた。

正しくは「雪かき」というより、竹箒で用が足りるほどの少ない量のうちに、回を重ねて掃き散らすという方が当たっている。
「雪掃き」だ。

降雪量にもよるが、1回の降雪で数回に渉る「雪掃き」の繰り返しだったと思う。子供の頃、それを手伝ったことをよく覚えている。

「積もってしまうと掃けなくなる…」
「箒で掃けるうちに…」

雪が止んでから一度で済ませれば…と思える雪の処理を、何度にも分けて作業していたのは、そんな理由だったらしい。
手間を掛けていたのは、その家の勝手だろうから、同じ考えで同じことをせよと言われても、なかなか難しいと思う。

しかし、父母の掛けた手間から得られた結果といえば、確かに雪の少ない公道だった。

その雪掃きされた公道は、わが家の前だけではなく、積もった雪の濃淡こそあれ、地区の公道は同じように雪かきがされていたと思う。
わが家の記憶で記しているが、それは地域一帯に等しく行われていたという記憶に等しいことになる。


そうした記憶があるものだから、自分の家の敷地や通路をはじめ、公の道の雪かきを欠かさない…、否、欠かせない。暗黙のうちに、自分の家の雪かきを必要とする若干の通路と、敷地が接した公道の人一人の通行を確保できる程度は雪かきすることに疑問が無かったし、苦も無かった。だから、実際に雪かきをしてきた。

考えようによっては、名たる豪雪地帯でもないことから、地域ぐるみで組織だった雪かきに人足を出すまでも無かろうことは、理解に難くない。
当地の誰にしてみても、おそらく生命に関わる問題でないと考えられるから(笑)。

仮に何もしないで放っておいたとしても、ほぼ1日程度の日射があれば十分に解けてしまって、舗装した路面が現れるから、目くじらをたてるとこでもないのかもしれない。

しかしである。
自分がそうしているから…といって、他に強制できるものではないことを十分に理解したうえで、敢えて申し上げるが、雪かきをしない家が増えた。

一定の時間内なら、雪かきされている・されていない…は視覚的に歴然と表れてしまう。


年寄りは言う。

「ご近所に申し訳ない」
「雪を掃いてないのは目立つ(から体面が悪い?)」

昔と今は違うと言えばそれまでだが、しかし、誰に言われるともなく公道までも雪を掃く、自分の住まいする地域を住みやすくしたい…そんな気持ちが失われつつあるのかなと思う。

地域コミュニティーの再構築だとか、難しいことを言う物知りが多いが、この件に関する限り、そんな面倒な話ではなく、安全な往来だとか歩きやすくしたい…そんな簡単な話で、実行が伴いさえすれば済むことと思う。

穿った見方をすれば、当地とて地域社会に支障を来たすほどの降雪があれば、切羽詰って全く異なった対応があるのかもしれない。
だから、当地の降雪量が中途半端なのかな(笑)

もう80歳を超える叔父が笑いながら言っていた。
「うちは道に面した玄関間口は狭いが、道に沿って境が長いもんで。余所より多く雪かきせにゃならん」
昨日今日に始まったことではないはずだが、気にする様子も無い。

あまり具合の良くない脚を気にしながら、竹箒を振るっている年寄りの姿を思うと、雪かきに見える地域って何なのか、よく分からなくなる。


<おしまい>