2008年3月30日日曜日

誤用が気になる…

mixiに「誤用が気になる派(日本語)」というコミュニティーがあって、興味深く読ませてもらっている。

さまざまな誤用の事例や考え方が寄せられて、読み物として面白い。

私なりにそこでの議論を次のように分類している。
 ① 明らかな誤用の例を指摘し是正を求める意見
   (誤用が少数派の場合と多数派の場合があるが…)
 ② 誤用が定着したと思われる例を挙げ、これを容認する意見
 ③ 誤用とは言えないグレーゾーンの例を指摘する意見


①の例は、「間違いやすいカタカナ語ランキング」(goo ランキング)が引用され、分かりやすいものが掲げられている。

  5位:アボカド
 10位:ギプス
 17位:ブダペスト

どう間違うか…だが、おそらく (※右が誤りの例)
 アボカド(Avocado)    ⇒ アボガド
 ギプス(Gips)       ⇒ ギブス
 ブダペスト(Budapest)  ⇒ ブタペスト

(濁点・半濁点について、フォントの具合により難しい場合もある。アルファベットの綴りを参照してもらえれば、より明らかだと思う。)

誤用が少数派の場合と多数派の場合があって、誤用が多数派の例もあろう。しかし、誤用が多勢に無勢で正しい用い方とされる根拠は無いと思う。

外来語の日本語表記の例だけではなく、例えば「茨城」は県名なら「いばらき」であって、「いばらぎ」は誤用の例などさまざま。


②の例では丁字路(甲乙丙…の丁)とT字路(QRS…のT)が面白い。
漢字とアルファベットの表記、発音がたまたま近似していることから生じたと思われる。
いずれが正しいかと問われれば、私は「丁字路」と言う。
しかし、その意味するところも同じ、表記も発音も近似となれば、「T字路」も有りかと思う。
つまり、いずれか一方が正で、他方が誤りとする必要は無かろう、という意見である。
新聞や放送など公け、または自社のコードが有ったりする場合は、これに拠るだろうけれど、一般には認められていいのではと思う。


③の例で注目したのは、例えば次の例。
「寝台」のことをどう表記するかということについての行だ。
私は「ベッド」が正しく、「ベット」という表記は誤りと信じていた。
しかし、英語では「Bed」だが、ドイツ語では「Bett」であるという指摘があって、断じて「ベッド」が正しいとも言えなくなった。
私自身が「ベット」と表記したり発音したりすることはしないが、他が「ベット」を使ったとき、「それは誤用ですよ…」そう指摘したり、指摘しないまでもそう思ったりしないことにした。
おそらく、英語を根拠に指摘すれば大多数が「ベッド」が正しいと信じるであろう。
しかし、「ベット」が正しいという一方の根拠もあるわけで。
社名や製品名など固有名詞で「ベッド」とされている場合のほかは、「ベット」も正しいと言わざるを得ないか。
屁理屈かもしれないが、この例では正誤の判断は灰色域だ。

固有名詞における別の例を挙げると「ビックカメラ」
法人登記もそれだし、アルファベット表記も「BICCAMERA」だから、「ビッグカメラ」は明らかな誤用で議論の余地は無い。
ただ、当の会社としては一般人の誤用に限って悪意が無ければそれを容認すると思うのだが…これは予断の余談。
(一般人の定義が難しいが、この例に限らず報道、出版、広告宣伝など媒体系における誤用は問題だ。)


さて、私も誤用が気になるタイプだが、自身に誤りが無いなどとは決して言えない。正誤を迷うことが多々ある。冷や汗をかいたことも数多い。
だからこそ、この辺りについてはこれからも関心を維持していきたいと思う。


<おしまい>


2008年3月28日金曜日

「インスパイアされてオマージュしました…」とは、笑えない表現の話

表現を仕事としているある方のブログを読んでいたところ、次のような一行があった。

 「リスペクトっす」

これだけでは何のことだかよく分からないであろうから、前後の関係を少し説明しよう。
つまり、ブログの中で筆者は歴史を誇るあるブランドの商品を賞賛しているのだが、その賞賛の文章の一部に、有名なコピーが使われている。いくら有名なコピーとはいえ本家があると知らなければそれまでのことだ。

さて、ここで私には
「リスペクト」
の意味がよく分からなくなった。

その理由だが、リスペクトには「尊敬する」という意味と、私らが口語でたまに使う「パクリ」の意味とがあって、この例の場合ではいずれでも意味が通る。

その商品を「賞賛します」の意味と、そこで引用したコピーは「パクリですよ」という意味、この2つだ。

そのブログの主が表現を職業としている方だと分かっているからこそ、余計に私が混乱しているのかもしれない。一般にリスペクトを「パクリ」の意味で理解することは少ないであろうから。

これが切っ掛けで、気になったものだから似たような言葉について辞書的な意味を引いてみた。以下に示す。
引用にあたっては私の適宜判断で全文のうち必要な部分のみを使用している場合がある。なお、各文冒頭のHはHatena、WはWikipediaによる。


-------------------------------------------
⇒ リスペクト
H
尊敬する(英:動詞)
転じて、本歌取りや、パクリを指すことも。

(私の注記:ちなみに、研究社の新英和中辞典によれば「本歌取りや、パクリ」への転用については一切触れられていない)

⇒ インスパイア
H
霊感を与える 示唆する 喚起する(inspire with)・(思想、感情を)吹込む(inspire in, inspire into)
感激させる 鼓舞する(inspire to)・(激励[感化]して)…させる(inspire to do)
W
英語で「触発する」「霊感を与える」などを意味する動詞。名詞形はインスピレーション(inspiration)。スピリットと同系の語でもある。日本語でも「インスパイアされる」のように用い、「閃きを得る」「閃く」を意味する。また、「何かに刺激を受けて着想を得る」という意味でも使われる。元来は「何かにヒントを得つつオリジナルなものを着想すること」を指す言葉である。日本語慣用句の「瓢箪から駒」に近い意味を持つ。

⇒ カバー
H
他の人の持ち歌を、アレンジを変えたりして歌うこと。またはその歌った歌のこと。変えない場合はコピーといわれる。
他人に提供した楽曲を自分で歌う場合は「セルフカバー」と呼ぶ。
W
音楽用語。過去に他人が録音した曲を演奏して発表すること。
楽曲のカバーとは、ポピュラー音楽の分野で使われる言葉で、過去に他人が録音した曲を演奏して発表することである。

⇒ トリビュート
H
映画・小説の冒頭などに「special thanks」より強い意味で書かれることがある。多大な協力・影響を受けた場合、あるいは故人に対して。
ミュージシャンが、先人の作品に尊敬の念を示し、同じ・あるいはアレンジを変えた曲を演奏、録音すること。「~アルバム」など。その際、「カバー」との差異は、ひとえに「尊敬の念」が示されているかどうかであり、非常に曖昧。
W
他への賞賛として捧げられるもの。トリビュート・アルバム、トリビュート・コンサート、トリビュート・イベントなど。

⇒ パロディ
H
既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見してわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品。日本の本歌取り・狂歌・替え歌などもその例。演劇・音楽・美術にも同様のことが見られる。
W
他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法である。文学や音楽、映画を含めたすべての芸術媒体に、パロディは存在する。替え歌もパロディの一形態である。文化活動もまたパロディの素材となる。軽い冗談半分のパロディは、しばしば口語でスプーフ(spoof)と呼ばれる。

⇒オマージュ
H
芸術家などにささげる敬意。または、そのような敬意を表した作品。またはそのような作品の献呈。
W
リスペクト(尊敬)や敬意のこと。騎士の臣従礼。芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。昨今は斬新なアイディアの欠如などから、「オマージュ」と称して過去の作品に頼る場合があったり、デジタル技術により複製精度の向上でオリジナルと変わらない複製も作れるようになった。こうした背景から、しばしば著作権やモラルの問題に上がる(盗作に繋がり易い)。
映画などに於いては、何らかの記念作品の場合、過去の作品に遡り過去の監督などへのメッセージとして映像の一部に古い映画をイメージする部分を挿入する事がある。

-------------------------------------------

さて、辞書的な解説を求めて調べてみたのだが、実に読み物として興味深い。
例えば「盗作に繋がりやすい(オマージュ)」とか、「カバーとトリビュートの差異が非常に曖昧(トリビュート)」などの記述には妙に納得してしまった。
「オマージュしました」と表現すれば、体裁はいいかもしれないが、しかし、その実は「パクリ」だったりしたのでは困りものだ。



※本稿の切っ掛けとなった某ブログないし筆者に対して、ここで問題を指摘し、評価する意図は一切ないことをお断りしておく。切っ掛けを与えてくれたことに、ひたすら感謝するのみである。
※本稿の後に「リスペクトっす」と指定してGoogle検索したところヒットした。その中でもブログの文中で使用されている例を確認したところ以下のとおりだ。
「(先輩の)△△さん! マジ リスペクトっす」
「Large リスペクトっす」
これらの例のように、おそらく「尊敬っす」の意味で使用されている場合が多いように感じられた。追記しておく。


<おしまい>


2008年3月26日水曜日

初心に帰って再び「BIZLOG」のこと

10ヶ月ほど前になるが、こんなことを書いていた。

<さて、そこから数えてたったの3年半。その間を振り返りながら、当初に私なりに抱いていた「手軽な日記ツール」のイメージから、「ビジネスツール」への発展、定着の可能性など考えてみたい。>
と。

 ⇒ http://donguri-press.blogspot.com/2007/07/photo.html
 ⇒ http://donguri-press.blogspot.com/2007/06/blog-post.html


スタートと2稿目くらいまではよかったが、直後に脇道に逸れだした。

以来、他の場所で試しにと始めたレビューブログとの間で記事の棲み分けができなくなり、こちらに緊急避難的に雑記のような文章が移住を始めた。
結果、移住先でも混在のまま未整理だ。
言い訳がましいくも、移住させるにあたっては多少の推敲など試みてはいるが、大半がコピペに近い。
ここで、軌道修正せねばなるまい。

拙所、「BIZLOGの処方箋」であることを自ら再認識しようと思う。


<おしまい>


2008年3月24日月曜日

ブログを知らしめる方法

インターネットの最大の魅力の一つに全世界に向けて情報発信できて、しかも世界中からアクセスしてもらえることが挙げられます。この点で、マスメディアつまり「マス」と接頭語を冠して「大衆向け」を標榜し、不特定多数に向けて情報を発信する既存のメディアとは決定的に性格を異にします。

つまり、インターネットが双方向である点において違いが顕著です。しかし、インターネットにおける問題の一つとして、利用者が主体性をもって情報を取りに行こうとしなければ、情報があることさえも知られずに多くのWEBサイトの中に埋もれてしまうということが挙げられます。
この問題を解決するには、閲覧の目的とされるべきWEBサイトの存在を告知するしかありません。

ビジネスブログにおいても同様で、そのサイトへのアクセスを増やす方法を講じなければなりません。その方法として大別して2つあり、オンラインとオフラインのメディアによるものです。

① オンライン
バナー広告やメール広告などインター ネットそのものを利用した広告です。
最近、SEO(Search Engine Optimization)、SEM(Search Engine Marketing)という言葉を耳にすると思いますが、端的に検索エンジンに検索され易くする仕掛けも考えられています。

② オフライン
コストのことを考えなければ、既存のあらゆるメディアに告知の可能性があります。テレビ、新聞のようなマスメディアからパンフレット、チラシ、名刺、あるいは電車の吊り広告など考え易いでしょう。
他に、流通する商品があれば、そのパッケージを介してなど考えられます。最近では、携帯電話の普及を狙ったQRコードによる告知も行われます。アドレスなどを収めたQRコードを携帯電話のカメラ機能で読み取らせ、携帯電話からアクセスしてもらう方法です。まさに、オン・オフの合せ技的手法として若年層に対する手法として定着した感があります。

また、TVコマーシャルの最後に、検索キーワードを記して「詳細はWEBサイトで」として、自社サイトに誘導する手法なども一般的に使われているので、各社とも如何にしてWEBサイトへ自発的なアクセスを起こさせるかに工夫を凝らしている様子が伺えます。


<おしまい>


2008年3月18日火曜日

ブログの効果ということ

ブログは元来、ホームページなどとは異なって、全ての人々に等しく向けられたメディアであるとは言えません。それを必要とする人が必要なときにコミュニケーションして情報の交換を図ることができる、つまり特定少数の人々たちに向けたメディアであると言えます。

したがって、「ブログ」は極端な話ですが、たった一人のターゲットに対して効果的にアプローチをすることが可能になります。これにより、企業は従来の顧客とは別の見込み客をターゲットとしてコミュニケーションすることに可能性を見出し、期待をしています。
ただし、この選択肢に行き着くことは、大企業にとっては難しいと言われています。
つまり、これまでなら原則として切り捨てる方向に向いていたロングテール市場を維持したり、あるいは新たにその市場に参入することにもなるからです。放っておいてロングテール化するのと異なって、この市場に参入したり維持したりすることをするわけですから、その難しさも理解できます。


しかし、必ずしも大企業だからブログによるコミュニケーションが向いていないとは言えないでしょう。なぜなら、商品やサービスの特性に着目して、これを分類することによって、場合によって採用し得る手段となる場合もあろうからです。
一例ですが、私の友人に
R社(カメラメーカー)のカメラのユーザーがいます。彼はそのメーカーをオーナーとする、その特定のカメラに関するブログの愛読者です。そして、そのブログからそのカメラについて多くの有益な情報が得られるとの評価を与えています。R社からすれば数ある製品ラインナップの中のたった1アイテムなのですが、そのカメラに対するのと同じくブログに対しても、高い評価を与えていることに意義があると考えます。

ということは、少し見方を変えることにより、違った側面が見えてきます。
つまり、中小企業やロングテール市場を維持する企業においてこそ、「たった一人のターゲット」のために、ブログによりコミュニケーションを図り続けることの意義が見出せるでしょう。大企業がブログでマーケティングを行うことに内包する矛盾は、むしろ中小企業においてはブログマーケティングの可能性の証であるのかもしれません。


<おしまい>


2008年3月17日月曜日

メタボリック健診に思うこと ~2008年4月スタート~

誤解を恐れずにメタボリック健診について記す。

既にご存知の方も多かろうが、要するにこういうことだ。
この2008年4月から、メタボリックシンドロームに着目した新しい健康診断・指導制度である「特定健診」と「特定保健指導」がスタートするというわけだ。その対象は、国民健康保険や健康保険組合の加入者や被扶養者のうち、40~74歳の受診者となる。

ここでポイントが2つ。
「特定健診」と「特定保健指導」について観てみよう。

まず、特定健診。
これは、健診項目に「腹囲」が追加されることがポイント。
腹囲はいちばん細いウエスト周りではなくて、「へその高さ」で測定する。
男性では85cm以上、女性では90cm以上で内臓脂肪が蓄積していると判断されます。
腹囲と合わせて、①血糖値、②中性脂肪値、③血圧の3つの数値を基準に判定されるそうだ。

では、如何なる場合が該当する…については、専門の各ページを参照されたい。

次に、特定保健指導があるとのことだ。
これには、①積極的支援、②動機づけ支援、③情報提供の3つをして、指導の内容らしい。

①積極的支援は、メタボリックシンドロームと思われる人に対して、医師や保険師などから生活習慣改善の指導が3か月以上にわたって持続的に行われる。面接のほか、電話、手紙、メールなどで指導を受けることができる。
②動機づけ支援とは、メタボリックシンドローム予備群と診断された人に、最低1回の生活習慣改善 指導が行われる。
③情報提供は、腹囲以下に異常がない人に対しては、メタボリックシンドロームと生活習慣に関する情報が提供される。

さて、ここで疑問点を整理する。

まず、特定健診についてだが、随分前から男性85、女性90以上という胴回りのことがシンボライズされて喧伝されてきたので、承知しているつもりだ。ただその頃は、あくまでも個人的な努力目標の目安程度のことであって、私とて真剣に考えたことは無かった。むしろ、血液検査により指摘される内容に耳を傾けていた。
ところが、本稿でも「シンボライズ」と記したが、あまりにも胴囲のことばかりが前面に出すぎてはいないか。
もちろん、胴囲の基準だけではなく血液検査の結果を合わせて、診断そのものは総合的に行われるようだが、目に見えてそうと分かる胴囲の基準をしてメタボリックシンドロームの象徴のように取り扱うことには、その本質を見失いはしないか、の懸念が先に立ってしまう。

男女ともに、身長の高低はあって、しかもそこに体質的なものも加わるわけだから、それを1つのスタンダードで測るという、その基準を定めた発想、根拠が怖いのだ。
確かに、専門家が膨大なサンプルから精緻な統計的手法など駆使しながら、「ここだ!」と引いた線であろうと信じたいが、しかし、誰にでもそうと分かりやすい基準でものを判断したり、区別したりすることの恐ろしさを、歴史上、あるいは私的な日常の中で体験したことはないだろうか。

私の考えすぎかもしれない。
が、体格や体格、身体の形質的な特徴を捉えた上で、さも論理的であるかのようなふりをしながら、しかし実のところは極めて感情に依拠した「相関性」などという言葉まで使って、まるで因果関係があるかのような、こじつけをしてしまったことは無かったか。

健診の対象年齢のことを考えれば、「大人だから…」となるかもしれないが、しかし、それより若年に対して、85、90 の数値はある一定の印象をもって捕らえられることになろう。


そして、もうひとつの疑問が「特定保健指導」のことだ。
これについては、実態がまったく見えない。
なかでも、積極的支援については、私が引いた文章には「指導を受けることができる」となっている。主語は受診者だから、「受ける気がなければ、受けなくてもよろしい」わけで、そうすると指導する側のその指導に対する関与、あるいは指導の水準とはいったいどのようなレベルになるのであろうか。

かつて、ある事業所で従業員の健康診断を実施したとか。その健診には、名前は失念したが「何とか予算」による補助がついて、割安で受けられるとのことだった。
事業所にとっては、健診の費用が削減できてうれしい話で、これで終われば何でもなかった。
ところが、その補助に相当する予算の趣旨とかいう言い方で(あくまでも検診した側つまりサービス提供者がそう言っている限りで、真偽の程はここでは確かめようがないが)、執拗に従業員に対する指導の申し入れがあったそうだ。
本人も会社も、時間が許せばそれを積極的に拒否する立場ではないのであろうが、とにかく一人でも直接面談させて欲しい…の要求だったとか。最後は、人身御供を一人差し出し、しっかり指導を受けたことによって、先方からの追及の手が終息したそうだ。

この例にあるように、指導を受けられる者、行う(べき?)者の目的性が、当初から別を指しているのではないか、という気がしてならない。
まして、その手段たるや「面接のほか、電話、手紙、メールなど」とあったには、失笑してしまった。
私は「熱心な保健指導」で知られる優秀な保健師さんを個人的に存じ上げており、失笑の理由については誤解の無いよう説明しなければなるまい。
要するに、指導の実態が、個人のパーソナリティーやいわゆる献身的な努力によってのみ支えられているようなことがあってはならない、ということだ。

だから、この場合に「指導」とはまことに都合のいい言葉であって、当事者双方が自分に良いように、如何にでも理解できてしまうところが危うい。
そのことのために、予算がつき、その執行された予算の実効を定量的に把握できないことに対する、国民としての不安である。

総論で反対する要素がなくとも、各論で…つまり執行という場面では、
「また、あいまいな」
「もう、だまされないぞ」
そう考えても不自然ではない。

各個人の目安や努力目標程度の認識であったろう「85、90」という数値が、いつのまにか国民の命と健康を守る一大施策を標榜することとなって、それに行政が関与することに様々な不安を禁じえない。

私の場合、昨年の健診で88だった数値だったが少し腹に力入れたら85は切れると思う、今年もその程度の認識の中のことだ。

ただ、血液検査のことは真剣に考えているし、考えざるを得ない。
今年の結果が楽しみでもあり、不安でもある。


<おしまい>


2008年3月14日金曜日

新明解国語辞典のススメ

オンライン書店が人気を博しています。

その中にあって、押しも押されもしない代表格といえば【セブンアンドワイ】。
わが国の小売、流通に革命的な影響を与え、かつ、WEBの時代を迎えてさらに変化している、あのセブンアンドワイのこと。
本や雑誌、CD&DVDにしても然り。
奇を衒うことなく平然とやってる感じが、風格あって心地よいが…。

ただ、恨めしいのは…立ち読みして暇つぶしする、あの怠惰ながらも、ありもしない知的雰囲気を漂わせるに最適な環境を奪われてしまったこととです(笑)


さて、そんな中、ワタシの珠玉の一冊を「アツく」紹介してください…」という、超難問を突きつけられてしまいました。

面白い…、感動した…、とワタシが言いましても、永らく世間様に向かっては斜に構えてきましたことから、皆様に賛同の意をもって「アツく」受け容れられますやら、いささか疑問ではあります。
が…。
しかし…。
生来の斜な観点から選ばせて頂くならば、この一冊となりましょう。


知る人ぞ知る…新明解国語辞典であります。
おまけに、この場合は「大きな活字の」とサブタイトルが付されております。

というわけで、正式名称は
大きな活字の 新明解国語辞典
となるわけです。

広辞苑が、七三分けの刈上げ頭、かつ、度の強い黒ぶちメガネの学生服だとすれば、新明解はジーンズにメタルフレームの色つきメガネ、茶髪のロンゲ…かな?

まっ、そこまで言うと大袈裟だけれども、とにかく新明解は解説が洒脱。
型にはまらない、イタズラ者…。

将軍に例えると…八代将軍吉宗…、八代亜紀ではありません。
ブログライターにWikipedia、放送作家・構成作家に新明解、と例えを挙げ出したらキリがありません。

肝心な内容において詳しく書かれているか…という点においては、手抜きがある(失敬!)どころか、書き過ぎ? とも思えるほどの念の入れよう。

この言葉に、なんでここまで詳説するの? って思うことが多々あります。

だから、ライターさんや、クリエイティブ系さんの必読書と言っても過言ではない?
ネタに詰まったら、

「新明解ではこうこう書いてあるが、それって…どうなの?」
と、ムチャブリしておいて、自分で受ければイイ…。
だから、ある意味でお手軽・カンタン技法なんです。

と、そんなこと年季の入ったライターさんだって、結構やっていらっしゃいます。
そう言えば、以前のTV番組で「おもしろい例文」とか称して、そのまんま使ってベタな番組作りがされていたことだってあるわけでして。

正直に出典、引用を明らかに…、というより、むしろそれを明らかにすることによってこそ注目度を上げようって…、見方によっては誠に安直で胡散臭い番組作りにも参画させられてしまった、悲劇の…否、話題の国語辞典なわけです。

ということは、逆説的にプロの放送作家の心の拠り所ともいえるネタ本…いやいやモトイ! 国語辞典なわけであります。

こうして、稚拙な文章でその高尚なる面白さを語りつくすことなどできようか…?、できっこない…わけでして。

ですから、ワタシのオススメするこの一冊を、ぜひともご一読、とはいわず何度でも読み返して頂き、行く行く願わくば是非とも座右に置いて頂きたいわけです。

なお、「大きな活字の…」の部分は、割愛して頂いても内容に一語の違いもありませんので、ご自身の年齢や今後のこと、将来性をご検討の上で、お選びくださいますよう、くれぐれもご案内申し上げます。

思いの外、長文、かつ、思いの内、駄文にお付き合いを頂き、感謝致します。


<おしまい>


2008年3月13日木曜日

地域医療と医師不足

限界集落が定義され、関心を集める中で、地方・地域の崩壊が叫ばれ、地域医療の再編や医師不足の問題解決が求められている。

中には限界集落を云々する以前に、例えば産婦人科医療のように自治体が経営する病院(行政組合立などを含む)においても、診療を止めざるを得ない例さえある。

医師の絶対数が不足していることに加えて、医師の大都市集中は既に医師個人の問題を超えているとも言えるのではないか。

民間の病院経営は資本主義的な弱肉強食の世界にさらされる中、一方で地方行政を主体とする公的病院の再編、再配置は、いわゆる民間病院をも取り込んで抜本的な解決が求められるところだ。

さて、そうした医師を募集する、求人情報に関するネットワークがあるとのリリースがあった。
それとて、募集と応募・・・需要と供給が成立する範囲内でこそ成立する契約の構図なわけで、では、そうしたネットワークがありながら依然として、いわゆる人気の外にあるといわれる地域医療、僻地医療はどうなるのか?

今こそ「赤ひげ」や「Dr.コトー」が求められている。


<おしまい>


2008年3月12日水曜日

iGoogle のこと

つい最近のこと、ある友人の方との話の中で「iGoogle」のことがテーマになりました。

iGoogle とは、あの Google が提供する各種のサービスのうち、様々なサービスやツール、あるいは興味深いコンテンツがぎっしりと詰まった Google のホームページのことを指します。

このページに表示する、いわゆるコンテンツのことを「ガジェット」あるいは「セクション」と呼ぶのですが、それらをユーザーが自由に選択して、レイアウトもユーザーの好みに応じてカスタマイズすることができるというサービスです。

私の第一印象は、面白くて、役に立つ、使い方も使い勝手もユーザーの自由自在という「お好み感」が、なんとも素敵です。

これを利用する場合には、まず、Google にログインします。
ここではユーザーに Google のアカウントがあることを前提として話を進めます。
まだ、アカウントをお持ちで無い場合には、まずアカウントを取得してください。


ログインした状態から、次にGoogle のホームページ
http://www.google.co.jp/
に入ります。
そこに「 iGoogle 」というテキストリンクが貼られていますから、クリックします。

そのトップにあるテーマ画像の右側に「コンテンツを追加」というテキストリンクを見つけたら、これをクリックします。

さあ、この先は使ってみたいガジェットを表わしたバナーの下にある「今すぐ追加」ボタンを押すだけです。

これで、あなたの「 iGoogle 」のページに、今選択したガジェットが追加されているはずです。

もし、追加してしまった後に必要ないと判断した場合には、該当のガジェットにレイアウトされた削除ボタンで即座に可能。もし、復活したい場合には先ほどの「今すぐ追加」ボタンで、これも簡単に行えます。

例えば、次のようなガジェットが用意されています。

- Gmail の受信トレイのプレビュー
- Google ニュースおよび他のニュース ソースからのヘッドライン
- カレンダー、TODO リスト、付箋などの便利なツール
- 持ち歩けるブックマーク(どのパソコンからでもアクセスできます)
- その他いろんなサイトからのコンテンツ

iGoogle ページの詳細については、次のページを参照されるといいと思います。

http://www.google.co.jp/support/bin/answer.py?answer=25551



私が面白いと感じたのは例えば、

【ダイエットチェッカー】 ← 既定値の名称です。

タイトルの右サイドにある「メニューボタン」を押すとプルダウンで、次の内容が表れます。

モジュール名 : 例えば「絶対ヤセタイ」なんて具合に、センスある名称(?)に変更可能です。
ニックネーム : お好みで
身長(cm) : 正直に…
体重(kg) : より厳密に…
目標体重(kg) : 身体を壊さない程度…ホドホドに!…が身のため?
年齢(15~69) : これまた正直にお願いします。
性別(女=0、男=1) : 残念ながら「0.5」という既定値がございません。
いつまでに : △月…とか、くれぐれも無理をなさらぬよう

※ご家族であろうとも体重など知られたくない! そう仰る向きには、Google アカウントをお一人、お一人に所有されて、各々管理されますよう、オススメします。何につけ守秘、セキュリティーの世の中、ゆめゆめ体重ごときで騒動など起きませぬよう、くれぐれもお大事に。


さてさて、まぁ、これだけ入力しても、ここで示されるのは
現在のBMIと肥満度判定、基礎代謝量の3つ(だけ)です。

しかし、眺めるたびに気の利いたコメントが示されて、勇気付けられる?

その他にも、懐かしいPacMan(パックマン)や「Sudoku(スウドク)」などのゲームなど盛りだくさんです。

ゲームなどで遊んでばっかりでもなんですが、iGoogle そのものは、試してみる価値があります。

なんてたってタダですから…。

<おしまい>

※ただし、数あるガジェットの中、表記は日本語なのにシステム的に対応しないものや、そもそも経路検索(地図)のように日本の地名を判読していないと思われるガジェットなど、気付いただけでも結構な数があります。
使えないと判断した場合には、スパッと捨ててしまいましょう。


2008年3月9日日曜日

「謎の会社、世界を変える。エニグモの挑戦」

さて、この3月14日に刊行される「謎の会社、世界を変える。エニグモの挑戦」をご紹介しよう。



タイトル: 「謎の会社、世界を変える。エニグモの挑戦
発刊日: 2008年3月14日(ミシマ社より刊行)
著:須田将啓・田中禎人(株式会社エニグモ共同最高経営責任者)

本書はバイマ、プレスブログ、フィルモ、ローミオ、シェアモという五つのサービスを世に送り出したエニグモの起業物語である。

版元であるミシマ社により記された公式コピーにより内容を紹介すると次のとおりだ。
「バイマ、プレスブログ、フィルモ・・・『世界初』のサービスを連発する最注目ベンチャー・エニグモ、ついに初の著書を刊行!
これからのITビジネスの行方までもが見えてくる、感動と興奮の起業物語」
とある。

小生がインターネットを意識したのがMacを導入し、道具として使いこなせるようになった93~4年頃だった。ホワイトハウスのHPにアクセスした…といった興味関心の範囲のことで、将来性の予感はあったが身近ではなかった。回線環境は一部の研究施設などを除いて無きに等しく、コンテンツにしても米政府機関や大学など一部の先進的な試みに限られていたという記憶だ。
そのインターネットだが、ハードとソフトの総合情報ツールだとすれば、それぞれの要素が一歩一歩、背伸びをしながら…しかし、ある一時期を越えた時点からソフトが加速度的な伸びを見せた。

そのソフトとは、コンテンツであり、そうしたコンテンツを支える様々な仕組みである。
本書は、そうしたコンテンツについて先見性を発揮し、深く関わってきた著者により記された、起業の物語であり、さらに、そう遠くない将来に予見されるインターネットの新たな夜明けについて触れらる。

さて、こうしたブログを使った新刊発売の告知にしても、業界人にしては当然の企画であろうが、初歩的な仕掛けにまんまと乗っかって、こうしてレビューしている小生も、謎の会社とともに世界を変える…、エニグモのサポーターの一人なのである。


<おしまい>


2008年3月7日金曜日

フリーブログを選んでテンプレートを決めました。

知人の方から依頼を受けて、フリーブログとテンプレートの選定を行いました。

数々のフリーブログがあって、かつ、中にテンプレートが用意されていて、それは賑やかなわけですが、いざ選ぼうとすると、そのバリエーションの多さに戸惑うことになります。

依頼の主、つまり未来のオーナーさんからは
「シンプルに…」
という意向を頂いておりましたので、幸いなことに私の傾向とはズレがないようで、安心した次第です。

いずれ、そちらのブログが立ち上がりましたら、オーナーさんの了解を頂いて、ご紹介しようと思います。
が、よくよく観てみれば、なんともここに表わされている当ブログによく似ていることか。

しかし、今回の方がベースのホワイトスペースが多い分だけ、当ブログより広がりがあって、むしろ文字その他のレイアウトも無理なく決まっている…
ちなみに、自動表示されるコマーシャルのテキストやバナーの類が一切ないので、これもその印象に拍車を掛けています。
さらに、用意されているブログパーツの類も「表示する・しない」が選べるので、極力抑えることを薦めています。
だから、本当にスッキリしています。

自分で作ったわけではなく、ただ選んだだけなので偉そうなことをいうつもりはありません。
が、まさにシンプル・イズ・ベストを地で行っています。

そんなわけで、そんな素敵なテンプレートに盛り込まれるコンテンツは如何に?
楽しみにしているやら、見るのが怖いやら…

いずれにせよ、リリース間近の様子です。

乞うご期待。


<おしまい>


2008年3月5日水曜日

PARCOは渋谷に限る

やっぱり、PARCOは渋谷がいい。

だって、渋谷PARCOは渋谷にしかないのですから。

渋谷に次いで後から出てきた○○PARCOや△△PARCO、そこいらのたくさんのPARCOは確かにPARCOです。
が、渋谷PARCOではありません。

当たり前な話ですが、PARCOを語るとき、ここが肝心要です。
軽んじてはいけません。

しかし、どこそこのPARCOについて、

「あそこの○○PARCOはいまひとつ…」
とか
「この△△PARCOはダメだね…」

決して、PARCO同士で品評しようとしているのでもありません。
みんな立派にPARCOなのです。
でも、PARCOと名がついても「渋谷PARCOもどき」であることに間違いありません。PARCOといえば渋谷なのです。

だって、今では当たり前になってしまいましたが、PARCOが世に出たての当時の
パ・・・ル・・・コ・・・
あの洒落た言葉の響き、そして新聞にしろテレビにしろ、あの奇抜な広告の素晴らしさは、どれをとっても渋谷PARCOの広告であって、渋谷PARCO以外のPARCOのものではありません。

そうこうあって、当時は
「PARCOは渋谷を変えた」、
「人の流れを変えた」
とさえも言われ、PARCOはしっかり渋谷に定着してしまいました。

(注:確かPARCOは池袋が先発だったと思うのですが、当時に「池袋を変えたって」いう論議ありました? 少なくとも私の記憶にはありません。)

そのときから渋谷とPARCO・・・、切っても切れないくされ縁で結ばれた相思相愛の仲になったのです。

こんなピッタリの組み合わせって、当時、他にありました?

六本木といえば…、そう、今でもアマンド辺りでしょうか?

新宿なら追分交番(?)、荻窪とくれば教会通り・・・。

その街とは切っても切り離せない、ランドマークというかタウンマークというか、いずれにしても、人々の心の中にはそのようなものが必ずあるものです。

でも、だからと言って
「調布ならどこ?」
とか、
「じゃあ、松本なら?」
と問われても、答えは決してPARCOではありません。
差し詰め、調布は深大寺・・・、松本なら松本城・・・ってなっても、誰も責められないでしょ。

でも、しつこいようですがPARCOは渋谷なんです。
調布や松本ではありません。

「私の街にPARCOがやって来た!」
PARCOが進出したその街は、そりゃあもう大騒ぎです。

PARCOが来たのと同時に、渋谷が近づいて来たような、そんな錯覚さえしてしまうものです。

年齢によっては、なんとか大サーカスがやって来た・・・、あの感覚に近いものがあります。
どこか浮ついた、ソワソワ落ちつきのない、そんな感じです。

しかし、わが街に近づいたものの、やって来たのは渋谷PARCOでもなく、渋谷の街でもなく・・・、紛れもなく、ただのPARCOなのです。

この辺りを勘違いすると、たいへん妙なお話になります。


さて、「PARCOは渋谷に限る」というそのわけを、お年頃のお嬢様とそのお母様の関係を勝手に例に引いて、考察してみましょう。

お年頃の娘さんがいらっしゃいます。快活な明るいお嬢さんとお見受けします。

「お母さん、今日帰りにお友だちとPARCOに寄って、お買い物をしてくるからね」
娘さんが、そう出掛けに言ったとします。

お母さんは当然のこと、わが街のPARCO、たとえば調布PARCOだと勝手に解釈して、妙に安心してしまいます。
お母さんも時々、駅からの帰り道に立ち寄るあのPARCOをイメージしているのです。
しかし、娘さんはそんなつもりはまったくありません。

まず、娘さんの心は、PARCOはPARCOでも渋谷に向かっています。渋谷より先だった池袋なんて言ったって、娘さんには無関係。当然です。
まして、地元の○○PARCOにではないこと歴然です。
ご自宅から近いか遠いかなんて、娘さんには関係ありません。

だって、娘さんが地元の○○PARCOで、天地神明に誓って本当にお買い物をしていたと考えてください。

お買い物のまっ最中に、買い物袋から葉っぱの付いた大根とネギの青いところでものぞかせたご近所のおばさんに出会ってしまいます。

「あ~ら、エミちゃん。お母さんとごいっしょじゃなかったの?」
なぁーんてねッ。
渋谷PARCOでしたら、こんなふうに呼び止められる危険性はまずありません。

お買い物の目的外で、たとえば不埒な気分なんて全然ないのに、たまたま同級生かなにか、とにかく男性の方と所在なくヒラヒラ歩いていようものなら…と。
エミちゃんは考えただけでもゾッとします。

「いえッ、おばさんたらーぁ、この方は…。ッもう、そんなんじゃなくってェー」
「あ~ら、いいのよ、いいのよ…エミちゃんたら。私って、この辺じゃ、お口が堅いことで通っているんだから。知ってるでしょ、ホ~ント。ご安心なさ~い」

おばさんのおっしゃることの何が「ホ~ント」なのか知りませんが、危ないったら。そんな事態にでも陥ったら、もう目もあてられません。

早ければ、いや、確実にその日の晩のうち、遅くとも翌朝までには、エミちゃんはお母さんから矢のような質問を浴びせられることになることを覚悟しておかなければなりません。

ここで、もし仮に幸いなことに、おばさんに現場を押さえられなくても、出掛けにエミちゃんがお母さんに言った
「お友だちと・・・」
という言葉の中身、その真実は…確かに広い意味でお友だちのうちのお一人を指していることは間違いありません。

しかし、そのお友だちの実態といえば、おそらく8:2の確立で男の友だちである可能性が高いでしょう。いーや、可能性というより、もう間違いありません。

となれば、なおさらのこと、エミちゃんは地元の○○PARCOを選択するハズがないでしょう。

エミちゃんの意識の中で、こうして「PARCO」といえば本能的に地元の○○PARCOから遠ざかってしまうことを、誰が責めることできましょう。

そして、ここまで来ると、もはや娘さんのおっしゃっている「お買い物」とは、間違いなくそれに名を借りたデートを意味していると断言できます。

だって、地元の○○PARCOを差し置いて、エミちゃんがわざわざ渋谷PARCOにいること自体、デートであることを証明する動かぬ状況証拠です。
この選択は、エミちゃんの心中がいずれにあるのか、正直に物語ってしまっています。
実はエミちゃんもエミちゃんの彼も、渋谷PARCOを絡めた渋谷の街に、お二人の予想を覆すような、いーやしかし、ある意味で予想通りの展開を心に秘めて渋谷の街、渋谷PARCOに臨んでいる可能性が非常に高いのです。

だから、エミちゃんの地元の○○PARCOじゃダメなんです。
あくまでも可能性の問題ですが。
そんな秘めたる展開を予想(期待?)するのでしたら、地元のPARCOはただのPARCOでしかありません。ご近所のコンビニとどっこいどっこい。
わざわざデート場所をPARCOにセットした意味が無くなってしまうというものです。
待ち合わせだけだったら、どこだっていいじゃん・・・駅前のコンビニで十分。こと足りてしまいます。


これまでにご説明したとおり、PARCOについてお母さんとの間に生じる微妙な間隔のズレ、認識のズレを巧みに突いて、エミちゃんはめでたくもデートを敢行、そして成功とあいなるわけです。

どう見ても、この件に関する限りエミちゃんの作戦勝ちです。
だって、無理もありません。お母さんは地元の○○PARCOができてからというもの、ここ十数年にわたって渋谷PARCOには、そして、渋谷の街には一歩たりとも足を踏み入れておりません、正しくは踏み入れられません。

もし万が一、渋谷に赴かなければならない決定的な要素・・・たとえば大晦日のNHK紅白歌合戦の入場券が手に入ったとか(この場合でも、おそらく今なら原宿経由で会場にアクセスする方法を採るでしょうが・・・)、そんな理由でもなければ渋谷に意識はないでしょうし。
まして、PARCOなんて毛頭お考えの中にありません。

「へー、渋谷にもPARCOがあったのね。大したもんね」
いったい何が大したものなのか知りませんが、いかにもお母さんらしい独善に満ちた身勝手な感覚というか発想です。

でも、よくよく考えてみれば確かにそうなのです。
お母さんのPARCOは、地元のあの○○PARCOで十分なのです。
ひょっとしなくても、同じ駅前に店を構えるスーパー系の大規模店舗よりステータスは数段上・・・、と信じて疑いません。

が、しかしエミちゃんにとってのPARCOはやっぱり渋谷。
お他人様から後ろ指を指されるような、決してそんなやましい目的で渋谷PARCOを利用しようなんて思わなくても・・・、チャンとチャンとお買い物が目的であっても、特に急ぎでない絶体絶命の用でも無い限り、やはり地元の○○PARCOには向かうことがありません。

エミちゃんは訴えかけます。

「おんなじ品物だって、どこで買ったかで、価値がぜんぜん違うのよね!」
お母さんが聞いたら、全然説得力のない主張であっても、エミちゃんは断固として譲りません。

「エミちゃん、ステキな水着が駅前のスーパーにあったわよ」
お母さんを1次情報源とする「耳より情報」なんて、はなっから耳に入いりません。

渋谷PARCOで売られている水着と、□□デパートや▲▲スーパーに並べられている水着とでは、これらが寸分違わず同ブランド、同価格の品物であっても、エミちゃんには映え方が違うとかで、そう固く信じてしまっているようなのです。
まして、○○PARCOとて同じこと。断然、渋谷PARCOなのですね。

でも、エミちゃんのお母さんはもちろんのこと、広く世のお母様方に申し上げます。
決して、エミちゃんをはじめ世の娘さんたちを責めないでください。

お母様ご自身の胸に手を当てて、よーく思い出してみることです。

「エミちゃんの結婚式に着る留袖だけど、絶対に三越と決めているからね。早くいい人、見つけてねッ」
嬉々としてそれに類するようなことを口走った覚えはありませんか?

お父さんと駆け落ち同然で結ばれたお母さん・・・、留袖なんて用意してなさそうです。
近いご親戚でご結婚のことも、まだまだ先のようです。

でも、今から
「三越なら日本橋よね、エミちゃん。ほかじゃないのよね。絶対!」

エミちゃんは言います。
「無理しなくてもいいのよ、お母さん。高い買い物になりそうだったら…」

あぁ、なんとお母さん思いの娘さんですこと。

しかし、ご両親にはまだお話していませんが、エミちゃんの心の中では着々と一つのある計画が進行しています。

お母さんには通信販売かTVショッピングか何かで、そしてお父さんには当然に貸衣装で済ませてもらいたいのです。
「どうせなら、浮いたお金、二人の新生活に回してくれないかなッ」

渋谷でデートしながら、PARCOでウエディング・ドレスのショーウインドを見つめて、エミちゃんはそう思いを巡らせるのです。
「やっぱ、PARCOは渋谷なのよね。ほかじゃないの・・・。絶対に」

かくして新しいカップルの生活の第一歩も、栄えある渋谷PARCOを拠点に始まる模様です。

PARCOは渋谷に限る。

お二人とも、そしてお母さんも、皆さんお幸せに。


<おしまい>


2008年3月3日月曜日

障子紙における適材とは・・・?、高じて我が適所とは・・・?

「適材適所」ということが言われる。
一般的には、ある組織を想定して、何れかの能力に長けた者を、その長けた能力に相応しいポジションに当てること…という理解だが。

わが家では、年末からここまでの時期に「障子紙における適材適所とは」…を考えさせられる事件があった。
その原因は
のミスジャッジにある。

昨年末のこと、例年のとおり障子の張替えをした。
家人に促されて、手伝うことになったのだが、そのときに何を考えたか、私からトーレーシング・ペーパーを障子紙に…の提案をした。

果たして、トレーシング・ペーパーの強度や、光の拡散性など、以前からインテリアに使えないか…、そう気になっていたので、一度、障子紙の代わりに…試してみようと思っていた。
その試行のチャンスが年末に訪れたわけだ。

張り替えの作法など、細かな所作のことはさて置き、ここで結論を急ぐ。

結果は、従来の障子紙が圧倒的勝利を収めることに。

当然と言えばそれまでだが。
勇気をもって(?)それを試みた者にのみ許される、その体験的な実感に伴う結論だからこそ、今後にそれを試みようとの愚行が予見されるのであれば、

それは絶対に!

やめるべきだ・・・
やめなさい・・・
やめなければならない・・・

そして、あなたの時間と地球的規模の資源の無駄遣いは止めること!


さて、以下にその理由を記す。恥を忍んで。

① 障子紙たる和紙の強度にはかなわない!
いわゆる水貼りをして、貼りはじめ当初のシワを延ばすのだが、延びすぎて…というより紙自体に掛かったテンションんに紙が耐えられない。自らが乾くにしたがって居間に似合わない鋭角的、かつ、金属的な音を発して弾ける…。つまり破れる。

② まるで太鼓の中のよう…
よしんば、①の現象に耐えられたとしても、テンションが掛かり過ぎて、まるで「太鼓」の中にでも居るようだ。聴覚が耐えられない。
私は残念ながら、か幸いなことに太鼓の中にて暮らした経験が無いのだが、しかし、それを想像するに十分な「ライブな音場」が、室内に出現する。

日光東照宮における「鳴き龍」をわが家に借りてきたような、彼の甚五郎ばりの不思議な響きが室内に再現され、日常生活を送るには少々どころか、随分と疲れることになろう。

結果的に、テンションの掛かり過ぎで「破れ太鼓」と化して、そのライブな音場は壊れてしまうことになるのだが、おそらくそのような非日常を望む人は少なかろう…と信じるところだ。

図らずも、和紙の障子が織り成し、繰り広げる優しい音場その他の環境が最適だと確信することになった。

もろもろ、トレーシング・ペーパーを障子紙として採用することに、マイナスの理由を述べ立てたが、ある一面では和紙より優位にあろうかと思われる様々な特性を具有するトレーシング・ペーパーのことだ。
が、用いる先を間違うと、決してその能力を発揮できない…。

したがって、その本来の特性を、障子紙という現場においては誰にも喜んでもらえない…という、まことに不幸な結果になる。
けっしてトレーシング・ペーパーが全性質を以ってして、他に劣っているなどと結ぶつもりは無いのだが、しかし、障子紙という場面においては、断じて好ましくない。
百歩譲って結論は変わらない。見出すべき長所の欠片も無い。


冒頭の適材適所とは、悲しい話だがこのトレーシング・ペーパーの例が象徴するようだ。

和紙でもトレーシング・ペーパーでも、それぞれの素材をそれとして生かせる場所においてこそ活かしたいものだと思う。

ところで、果たして私の適所とは如何に有り?
そもそも適材なる客観的判断が有りや無しや、自らが測れない難しい問題だ。

高じて、果たして廃棄されるにあたり、和紙とトレーシングペーパーは当地の分別で同じなのか…などなどと、たった紙のことなのだが、想像を巡らせては様々を心象に投影してしまった。

素人ゆえの半ばの結論だが、捨てるとき、捨てられるときには分別の要は無い模様。

この妙な安心感は何故なんだろう。


<おしまい>


BIZLOG(ビズログ)におけるテーマ選び

子供の頃のこと。
夏休みの宿題のひとつに「日記」がありました。
半べそ掻きながら四苦八苦していた記憶です。
「きょうは(も?)、よくできました」
と毎日のように綴って、休み明けに叱られていたのは誰でしたか?
因果なもので、今回のテーマについて、そんな輩が偉そうに書けることでもあるまいに、なのですが(笑)

いくつになっても、日記がブログに変わろうとも、いざ何を書くのか…ということは、なかなか難しい問題です。

裏返せば何を書いても言い訳であって、正解があるわけではないので、気楽に考えればいいのでしょう。
しかし、少なくとも自分以外の誰かが読むことを前提とした場合には、秘密の日記帳然と何でも自由に書ける、というものではない…そう考えるのが一般的だと思います。

主張すべき考えの論理性、正当性に対する意見や批判のことなどを真っ先に考えてしまうと、論客、著述の方でない限り、多くの場合に筆が進まなくなってしまうことは理解できます。
「だれだれが書いた…」という一点を明らかにして表わすということには、それなりの覚悟が必要だと思うのです。

ただ、正確のため、匿名・筆名で表わすことに覚悟がいらないとしたり、それを問題視しているのではありません。筆名によるからこそ、と思っているのですが、縦横無尽に筆の勢いを感じさせて下さる力強い表現をいくつも存じ上げています。
ですから、匿名性の問題は、それをいいことにモラルの欠如とか犯罪性などの問題として議論されるべきことと思います。
したがって今回のタイトルとの関連ではこれ以上言及しないことにします。


さて、ビジネス目的のブログということを考えると、ブログのオーナーが誰かということを隠す積極的な理由が見当たりません。だから、BIZLOGは匿名性の外ということになります。
コマーシャルのオーナーが明らかにならない表現が果たして存在するのか、私には思いつきませんが、社名や商品認知の向上、企業イメージや信頼の維持・向上、もって、業績向上に資するために、社名など出所を隠すことはあり得ないと思います。
そう考えるとBIZLOGにおけるテーマ選びはたいへん気の重い作業になります。

かつて、別の場所で暖冬をテーマに
「今年は雪が少なくて良かった」
という旨の内容を記したところ、
「雪が少なくて困っている業種もある」
として、お叱りを頂いたことがあります。

この場合は、「暖冬」というテーマに問題があったわけではなく、むしろ、それが与える影響について良し悪し両論に立てなかった配慮の無さこそが問題です。が、このテーマを選んだそのときから、すでに結論をイメージして書き始めていたわけであって、私には「テーマ選びの難しさ」を象徴する一つの例として記憶に残っています。
雪が少なくて良かった…という、私の個人的な感想が本来の目的たる、その企業のコマーシャルに悪い影響を与えてしまったわけですから。

そのようなことを思い出しながら、先ほどBIZLOGのテーマ選びについて、あるブログのオーナーの方と打ち合わせをしてきたばかりです。
季節の移り変わりや地域の催事など、オーナーの方が適宜テーマを選びながら、それを打ち合わせの材料として提供してくださることになりそうです。

苦手なテーマ選びの負担からは解放されたかわりに(笑)、内容に対する責任の重さが増したようです。

というわけで、「BIZLOG(ビズログ)におけるテーマ選び」という当面の重たい問題について、これを今回のテーマに選んでしまった私は、選んでしまったことを悔やんでいるのでした。


<おしまい>


2008年3月2日日曜日

ビジネスシーンにおける円滑な人間関係形成のために

人の名前を呼ぶときに使う、あの「○○チャン」ほど、人と人のつながりに深い感動と潤いを与えるものはありません。

だって、どんどん薄くなっていくお父さんの髪の毛とビジネス社会における人間関係ですが、その人間関係を一発でブッ壊して、そしてまた意のままに関係を再構築することができる、そんな言葉の最終兵器って、名前や名字の直後に付ける「チャン」しかない…そう思っていませんか。

お父さんの髪の毛の問題はさておき、そもそも年齢や肩書きから生まれる上下関係に、ことのほかこだわりたがる日本人のこと。
その旧態依然としたこだわりの構図を打破し、終焉を向えた終身雇用制に代表されるようなビジネス社会における新しい枠組みを構築するには、四の五の面倒くさい経済学の原理やそれら史観に立った歴史的検証、各派ご立派な経営学の理論など必要ありません。
士農工商やカーストじゃあるまいし。

名前や名字の後に「チャン」を付ける…、この簡単な作業さえいとわなければその目的たる新しい枠組みを構築を果たすことができます。

さあ、ひろしチャン、あきらチャン、たかしチャン…それらのチャンが、人間関係に及ぼすプラスの効果とはいったい何なのか、チャンの魅力と秘密に迫ってみたいと思います。

さてここで、ハッキリさせておかなければならないことが一つあります。

もうお分かりのとおり、○○チャンの「チャン」って言ったって、ハイハイしたての赤ちゃんを呼んだりするときの、あのチャンじゃあありません。

まして、クラブのママさんが店の女の子に用を言いつけるときに多用する(らしい)、あけみチャン、みどりチャンのチャンでもありません。

学校を卒業して、かつ、立派かどうかは別問題としてイッパシの社会人となり、いわゆる大人として口が利けるようになった…、なって間もない…、なって随分と時間が経つ…、つまりはそうした男性に対してする「チャンづけ」のことを指します。

もっと事を正確に表すのであれば、親兄弟や親戚筋など関わりの濃淡にもよりますが、概ね四親等までの成人男性親族は除くことにします。つまり、場面の具体例としては柔道部か相撲部か応援団か知りませんが、学生時代に「押忍ッ」ないし「オッす」をやっていた、ずいぶんと体格のいいお兄さん対してだって臆することなく付けてしまう、あの必殺技とも言うべき「○○チャン」におけるチャンのことなのです。


【ケーススタディー その1】

では、先ほどの学生さん例で考えてみましょう。

彼には、移り巡る四季をも物ともせず、年がら年中、黒詰襟に身を包みながら、そして上下関係という細くともたった一本の糸で、鉄より堅いと本人とその周囲の特殊な関係者たち(だけ)がそう信じて疑わない、いわば団結という二文字を保ってきた経験があります。
まるで、修学旅行の土産物かなにか刻まれた定番のような一言ですが、卒業するまでのつい一ヶ月前までは彼は確かにその経験を誇りと信じてきました。

しかし、そんな皆さんに対してまでも「○○チャン」と仕掛けちゃいましょう、というわけです。

まったく無防備な状態で、いきなり

「ねー、○○チャン」

そう言われた本人のショックたるや想像に難くないのですが、この青天の霹靂状態に当のお相手である彼、つまり元黒詰襟を突き落としてしまう…、叩き込んでしまう…、「チャン」にはそんな魔力が潜んでいるはずです。

「A4でコピーね、いのくまチャン。両面で…、たのむよ!」
「オッす」
「押忍は禁句、いのくまチャン」
「…ッ、オッす…です」
「じゃなくてぇー、ハイッでいいの。いい? い・の・く・ま・チャン」
「っオ…、っとっとっと…、の…ハイッ」

新入りのいのくまチャンも、ずいぶん勝手が違って戸惑っている様子ですが、これで結構です。
もう二、三回、オフィスにおける何気ない言葉のラリーが成立しさえすれば、あなたといのくまチャンの関係、つまりオフィスにおける位置関係はあなたの意のまま、安心です。磐石というものです。
年齢あるいは学歴なんていう屁でもないもの、まして間違っても男だ女だ性別なんてものに縛られることは今後に一切ありません。皆無です。

この会話について、いろいろなご意見がおありかと思いますが、決して新入りさんをいじめようとしているのではありません。

ビジネスマナー講座のイントラさんには烈火のごとくお目玉頂戴の超ヒンシュク・トークのサンプルなのでしょう。
が、しかし実践面ではこれでいいのです。

ビジネスマナー講座は初期の新入りさんにこそ受講させられるべきもの、それ以降は実践、体得あるのみ。さすれば、講学上のビジネスマナーが先の例に変遷することを誰の手をもってしても、もはや阻止することは不可能でしょう。

少々脱線しましたが、この言葉のラリーはあなた自身を鍛錬している、そうお考えください。
いのくまチャンとのビジネスにおける円滑な人間関係形成のために。

だって、無駄に先輩風を吹かせるより、いち早くいのくまチャンと同じ目の高さに腰を折り、あるいは、膝を折ることができる、そんな柔軟性こそ今後あなたがビジネス社会に君臨していくための、必要条件として求められているのです。

「おい、いのくま君」

そうやるんだったら、最初っから

「ネー、いのくまチャン」

こちらの方が、数段優れているといえます。
そう思いません?


【ケーススタディー その2】

社内における暫定的な上下関係が同格の場合で考えます。

同格同士の場合は、お互いの親密度を確認し合うことに加えて、彼らに共通した敵対関係にある第三者に対するアピールという点を見逃すことはできません。

「たけだチャン、どう最近…ゴルフのほうは?」
「パットがいまいち…、ブレてんだよね。それはそうと、お噂は聞いてるよ。例の美人レッスンプロの話…。手取り足取りだっていうじゃないか…、うえすぎチャン」

課長同士のたわいもないゴルフ談義ですが、たけだチャンとうえすぎチャン、この二つの言葉を聞いた、おだ課長さんの心中には穏やかざるものがあるはずです。

ゴルフを嗜まないおだ課長さんですが、あのチャン付け…たけだチャン・うえすぎチャンは妙に耳に残ってしまうに決まっています。


【ケーススタディー その3】

先の新入りさんの場合がさらに発展すると、次のようになります。

「いのくまチャン、僕があげたアイアンの調子はどう?」
「バッチリですよ。さすがうえすぎ課長はお目が高い!」

と、まあこんなもんで話は問題なくまとまります。

このやり取りの中でも、双方の親密度の確認はもちろん、それを第三者にアピールすること、そして
「俺に従っていさえすれば、悪いようにしないゾっ」
という、うえすぎ課長さんの気持ちを「チャン」に十分に込めることができます。


【ケーススタディー その4】

次に、親密度効果の亜流として、取引業者さんなどに対して恐縮至極の頼みごとがある場合で考えます。

「こっちも手違いあったんだけど、なんとか納期のほうは予定どおりでいきたいんだけどさ、あべチャン」
「カンベンしてくださいよ」
「そこをなんとか、ねっ。あべチャン…、次の仕事のこともあるし…」
「こんなときだけ、あべチャンなんちゃって。今回だけですよ」

この場合の「あべチャン」は、本当の意味で親密度の加減を調整するのではなく、あくまでも擬似的な使い方です。

それが証拠に、業者のあべサンもちゃんと、そのことを見抜いています。

紆余曲折はあるものの無理難題が受け容れられたなら、それ以降の会話の中では「あべサン」という呼び方に直しても、なんら不自然ではありません。

むしろ、そうするほうが今後の商売上の展開を考えたときに有効かもしれません。

発注者であるとはいっても、本来ならば、こちら側のミスをお詫びしなければならないところですが、そこんところを謝るでもなく曖昧にして、擬似親密感を押し売りする。

「チャン」に頼って波風を立てずに、発注者の意向を通してしまうというやり方です。


【ケーススタディー その5】

「明日のプロジェクト会議の提案書だけど、よろしく頼むよ。ざわチャン」
「ご安心ください。課長」
「やー、助かるよ。ざわチャンがサポートしてくれないと、会議は踊るばっかりで…。全然前に進まないんだよ。いやぁー助かる!」

さて、このケースですが、先ほどまでのケースと多少なりとも雰囲気が異なることにお気付きの方は、中間管理職歴の長いベテランの方とお見受けいたします。

そうです。
中途採用ではありますが、会社の中ではだれもが仕事の能力を認めざるを得ない、そんな「おざわ君」に対して、いまや崩壊し死語と化した終身雇用制度の人柱的存在でもある「ふくだ課長」さんが頼み事をする場合のパターンです。

チャン付けをすることのほかに、念には念を入れて「おざわチャン」を「ざわチャン」と呼び方を縮めているところからも、課長さんのただならぬ心中をうかがい知ることができます。

おざわ君の入社以来、仕事の内容やスピード、上司の評価、客先の評判、どれをとっても

「おざわには、逆立ちをしても絶対にかなわない…」

そう感じて、唇を噛むことが増えてしまった「ふくだ課長」です。

会社における暫定的な地位は課長の方が上にもかかわらず、得体の知れない「おびえ」と「遠慮」から、パブロフの犬的にチャン付けをしてしまう、ある意味でビジネスマンの後天的学習により会得した術に依拠する、悲しいチャン付けの典型的な行為こそが、さわチャンとふくだ課長さんの潤滑油になっているのです。
そのことは、いまさら申し上げるまでもありませんね。


これまで一般的なビジネス社会におけるチャン付けの各種パターンを追ってきましたが、テレビ業界におけるチャン付けについても考察しておきましょう。

万事につけて先取り、先取りの当業界では、かなり以前からこのチャン付け行為を行っておりました。
さすがに先見の明あってか、ここで話題にしているパターンを実践していた、いわばチャン付けのパイオニア的存在といえば、間違いなくテレビ業界なのです。

「さとチャン、いい本を書いてくんないと、オレもう自殺もんよ」
「こんチャンの演出は神がかり…。視聴率でも奇跡を起こしてチョウダイッ!」

それでも足りなきゃ、「先生」だの「巨匠」の飛び道具の一言もご登場を願うことになります。

「先生、少しはこっちにも台本を回してよ」
「(おっと、先生ってオレのこと?)ゴメン、ゴメン、寝る暇もなくってさ!」

「アッそうー。売れっ子だからなー、巨匠は!」
「……(今度はアッという間に、巨匠ってかよ~)」

チャンは言うに及ばず、「センセイ」や「キョショウ」のオンパレード。

局で石を投げりゃ、各分野にセグメントされたセンセイかキョショウに必ず当たるといったところです。

いやはや、十年は先を行くと言われる業界のことですから、近い将来には銀座や赤坂のクラブ以外でも、「にわかシャチョウ」や「にわかカイチョウ」が蔓延することになるのでしょうか。

そこまでいかないうちに、いや、テレビ業界のようにならないうちに、ちゃんとチャン付けで人間関係を正常化しておこうではありませんか。


というわけで、役職抜きの「サンづけ運動」や、かつての「ノーネクタイ運動」改め、今なら差し詰め「通年クールビズ運動」を真剣に展開するくらいなら、同じ意識レベルで「チャン付け運動」を導入してみたらいかがですか?

人事部や総務部のみなさん。大真面目に考えてみてください。
効果テキメンだと思いますよ。


【注意事項】

これまでの「ビジネスシーンにおける円滑な人間関係形成のために」というテーマについて、若干の注意事項を加えます。
それは、女性社員に対する「チャンづけ」には、また全然異なった意味があります…ということ。
くれぐれも使用上の注意を守ってご利用くださいますよう、ご案内します。

使用上の注意については、紙幅の関係上、今日ここで申し述べるに至りませんが、社歴3年以上の常識的な会社人間の方でしたら、何となく勘所を押さえていらっしゃるはずです。
「チャンづけなんて、女・子供のものだから…」
などと軽く考えて誤用すると、えらい目に遭いますから、かえすがえすもご注意ください。

いわゆる、ハラスメントの問題です。
会社においては、セクシュアル…はもちろんのこと、パワー…も関係します。

行き掛かり上たまたまの上役が、単なる会社という閉鎖社会における立場上の脆弱な位置を借りて、コミュニケーションとかをお題目に、あまり馴れ馴れしく女性社員に接しないことです。
当の女性社員が「キモイ」とお感じになられたその瞬間に、
「セクシュアル&パワー」
最強のハラスメント・タッグ。
これに該当する確率は、橋下さんの2万パーセントを軽く超えます。

お大事に。


<おしまい>


2008年3月1日土曜日

枕通

わが家は「枕通」でした。
そもそも、
「枕通」という言葉が有りや無しや、怪しいところでもありますが、雰囲気はご理解頂けるものと思います。

ソバ殻を手始めに、というより基本として、これまでに家族で試した枕の数は知れません。
プラスチックのパイプを1センチに満たない程の長さに切り刻んだもの、その直径のバリエーションを数パターン、それらを詰める量を微妙に調整したり、違う種類同士を混ぜ合わせてみたりして。
低反発といわれる素材もいくつも試してみました。

同じような素材であっても、後頭部から首筋にかけてのカーブに合わせたであろう形状の物や、フラットな物、なんとかガウスの磁石が埋め込まれた物とかまで、ただでさえ狭い押入れの中には、使わなくなってカバーも掛けられていない枕が押し込まれております。

なぜ、これほどにこだわったかと言いますと、寝つきが悪いから、肩が凝るから、安眠できないから、あるいは頚椎に悪い影響があるという噂を聞きつけて…などなど、さまざまな否定的材料を解消するために、あれこれ次々と試すことになっていったわけです。

そうした我が家で、ここ数年の長期にわたって使われておりますのが、「通販生活」の誌上で売られている1万円以上もする枕です。
あらためてネットで調べて、世の中には値段的にもっと高額な枕がありますことを知りビックリしたのですが、ウン万円とかの金額ではないにしろ、枕ひとつに1万円以上も掛けるのは我が家の常識の外のことでした。

裏を返せば、それまでは一つひとつが安い枕だったから、安物買いだったから何回も買い直しができたのかもしれません。

この枕が長期間の使用に耐えている理由としては、

① 経済観念説
高額な枕だから、その価格に比例して使用期間も自ずと長期化している、つまり「元を取らなきゃ」という経済的防衛本能に拠るものされる説

② 高品質説
そもそも枕そのものの品質が高いために、「枕通」たる我が家の厳しい審査基準をクリアし、なおかつ、実質的に使用に耐え得る枕であるという評価に基づいて使用されているという説

二説とも当たっていて、そこそこ影響しあっている感もありますが、いずれか一説と問われれば、使い心地が悪い品物に経済的防衛本能が優れて使用に耐えているとは言い難く、したがって②の高品質説に立ちます。

「その評価は?」
と問われれば、

「良い枕です」
のただ一言。

「寝心地は?」
残念ながら、この問いにはお答えできません。
寝ている当の本人には無理なことですもの。

さて、これまで枕がヘタって買い換えたという経験の無い我が家では、この先この枕こそ使い切って、
「そろそろ買い替えねッ」
という時期がきっと来ると思います。

買い替えの多さに由来する「枕通」を返上です。


<おしまい>


注:イタリアのファベ社が出しているメディカル枕と言われるものです。