2008年1月31日木曜日

病気の名前

他人様には言えない、あるいは言うのに勇気が要るようなある種の病気があります。

幸いなことに大した病気じゃあないのに、病名を告げても理解してもらえないような病気もあります。

会う人、会う人に、いちいち症状を伝えるのも億劫になってしまう、一般人にとって訳の分からない病気も…。

医者にならともかく、素人さんを相手に病気のお話をするのって面倒…、健康なときならまだしも。
そうしたシチュエーションって間違いなく、病気のまっ最中だったり、治りかけだったりする場合が多いと思われるだけに、人と会うのに気後れしてしまうことって、多々あるようです。

それであるならば、心配風情のお見舞いも考え物かな?
仮に軽い病気であっても、頼んで面会謝絶にでもしてもらいたいと願う気持ちだって、分かる気がします。

(政治家をはじめとした、いわゆる有名人のゴシップ逃れの行動とは決定的に異なりますから、念のため)

私の場合、ずいぶん前になりますが、点滴明けには早速のこと
「点滴なんて余程のこと…どこが悪いの?」
とか
「電話の声だと、お元気そうじゃあな~い」

にわか医者の面々が心配とも興味半分ともつかない、でも、結構明るい声で話しかけ、質問してくれました。
点滴にもいろいろあって、たまたま目撃されてしまったそのときは、いわゆる疲労回復に効くというニンニク注射のときのことです。
尾篭な話で恐縮ですが、直後の小便がニンニク臭くなる例の点滴です。
たったそれだけのこと。


そういえば、昨年末来の倦怠感もすっかり癒えて、血液検査の結果を聞きに行くのを忘れていました。

あの時は
「絶対に肝臓だねッ。酒ばっかり飲んでるから…」
と、素人ながら確信に近かったのですが。
5日間連続で酒を断って、春ウコン・秋ウコンを混ぜて飲んでたら、ケロッとしちゃって。
逆説的にますます肝臓疲労原因説がクローズアップされる結果となっております。

これで、お医者様のお診たてや如何に。
お楽しみです。

さて、これからは年齢も年齢だから、どなた様から何を聞かれようとも、
「※※かもしれない…ひょっとしたら…」
なんて、神妙にして寂しそうに、そうお答えしておくことににでも致しましょうか。

それって、二の矢、三の矢、次々に繰り出される質問を封じるに最強アイテムでしょうから。

それにしても、こうして病気の名前のことを書いて楽しんでことが幸いです。
ただ、くれぐれも病気なんぞにはなりませんよう注意肝要。

なんてたって、健康第一ですから。


<おしまい>


2008年1月29日火曜日

中小自治体病院の生きる道は 【朝日新聞 医を創る 山梨から】より

朝日新聞に昨年末に短期集中連載された記事を見つけました。
隣の山梨県の事例になりますが、考えさせられるところは共通です。

思えば、当地南信州では限界集落がささやかれ、高齢化の進行は医療にとって深刻な問題です。
公共交通機関の存続問題とも相まって、
「医者に通えんくなったら、村を出にゃならん」
お年寄りの切実な声が聞こえてきそうです。

一方で、患者を受け入れる側の病院にとってみれば、医師の確保を始めとする様々な経営上の問題など、課題が山積です。

この先、私たちが住み慣れた地域で安心して暮らしていけるようにするには、どうしたらいいのでしょう。

短期集中5回連載の第1回です。
ご関心のある方は、次回以降を次のリンクから参考になさって下さい。

 ⇒ 医を創る 山梨から

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【医を創る 山梨から】

(1)中小自治体病院の生きる道は

朝日新聞 2007年12月06日

自治体の病院が今、分水嶺(ぶん・すい・れい)に立たされている。総務省が経営健全化のガイドラインを示し、その指標を割ると病床の削減や診療所への転換を促されるようになるためだ。横内正明知事は10月の県議会で、08年に「公立病院再編計画」づくりに取り組む方針を示した。医師の確保難に人口減と高齢化、複雑な診療報酬体系、さらには08年度決算から適用される市町村会計との連結決算……。再編の前に課題は山積している。地域にとって必要な医療とは何か。自治体病院の明日を考えてみた。

 6人部屋に2人、4人部屋に1人……。JR身延線・市川大門駅のすぐ横にある市川三郷町立病院。
100ある入院ベッドのうち今、半数近くが空いている。人気がないわけではない。医師が不足して、入院患者を受け入れられないのだ。

■入院希望断る

 病床利用率は昨年度が53・7%。5年前には84%あった。この間、常勤医は16人から10人へ。今年はさらに1人減った。

 入院患者の4分の1以上を占めていた整形外科は、05年に2人の医師が山梨大に戻った後、補充がなく、常勤医は不在となった。高齢化が進む地域ではニーズは高い。だが非常勤医師による週2回の診療では入院に十分な対応ができない。内科医も一時は5人いたのが2人になった。

 「入院の希望は多いが、断って他の病院を紹介せざるをえない」。河野哲夫院長は唇をかむ。

 新人医師に臨床研修を義務づけた04年度から、県内の病院で医師不足が目立ち始めた。研修先と勤め先を都市部の大病院に求める傾向が顕在化し、各病院に医師を派遣する機能を担ってきた大学病院でさえ、医師不足に悩むようになってきたためだ。

 山梨大出身の河野院長も、大学に派遣を要請しているが、色よい返事はもらえない。病院は04年度から赤字に転落し、町の一般会計から年1億4千万円を繰り入れる事態となった。

■指針で見直し

 町の財政は苦しい。収入に占める借金返済の割合を示す実質公債費比率が18%を超え、「要注意」の水準にまで悪化している。久保真一町長は「住民の福祉を考えれば、税金投入もある程度は覚悟が必要だ」としながらも、「ガイドラインが『公立病院は黒字に』と言っている以上、努力しないと……」と顔を曇らせる。

 ガイドラインとは、総務省が示す公立病院改革の指針。赤字だったり、病床利用率が70%を下回ったりした場合に、規模の縮小などの見直しを迫るものだ。

 「医師さえいれば、すぐにも黒字化するし、70%もクリアできる」。夏から毎月、相談を重ねるようになった院長と町長は、口をそろえる。だが医師不足の打開策は見当たらない。

 中央市の山梨大病院まで車で15分程度。町立で病院を維持する必要はあるのか、という指摘もないわけではない。

 これに対しては、「高齢者の利便性を考えた時、余裕を持ったベッド数は必要」というのが町と病院の見解だ。

◆地域医療を支える意気込み◆

 冬の日差しが、正午過ぎには山に遮られる。谷間の集落、早川町の新倉地区に三共診療所がある。週2回、医師と看護師、事務職員の3人が出張診療にやってくる。ふもとの国道沿い、身延町飯富にある飯富病院の医療チームだ。

 高血圧、糖尿病、腰痛にガンの術後管理……。朝比奈利明副院長が当番だった11月のある日、一番若い患者は73歳。最高齢は92歳だった。

 飯富病院は、早川町と身延町でつくる組合が運営し、87床ある。常勤医は市川三郷病院より少ない7人だが、病床利用率はほぼ9割に達し、経営的には黒字だ。

 長田忠孝院長は「どんな患者も断らず、まずは診る。地域医療を支える意気込みでやっている結果だ」と話す。無医地区につくられた病院。出張診療所が12カ所、それに往診もあるので医師の負担は小さくない。医師には一定の「条件」が求められている。

 「専門分野以外を敬遠するようでは向いていない」というのだ。患者の大半が高齢者。都会の大病院と同じような医療は求められていない。

 長田院長は目の前に迫る「大敵」にも頭を痛めている。加速する過疎の波だ。

 「今の診療圏は2万人程度。もっと広げていかないと、いずれ行き詰まる」

■6病院で会議

 峡南地域の全6病院が夏以降、院長会議を持つようになった。市川三郷病院から車で5分余りの社会保険鰍沢病院に、私立病院も加わる。

 「経営の話までは踏み込まないが、連携や機能分担のアイデアはいろいろと出る」と中島育昌・鰍沢病院長。共通の危機意識に迫られて、地域を支える医師たちは自治体の枠を超えて手探りを始めている。(この連載は吉田晋、岩崎賢一が担当します)
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<おしまい>


2008年1月26日土曜日

蕎麦を喰らう音

蕎麦好きの私としては、なんとも許せない内容の記事が目に留まったので、一言も二言も。

問題は以下に引用した記事に報じられた内容にある。
前段には何の関心も無い。
私としてはどうでもいい芸能ネタの一部のこと、出版に関するパブリシティーもどきのこと。ご勝手にどうぞ、である。
問題にしたのは後段のこと。

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本田医師が王理恵さんに復縁ラブコール
 ソフトバンク王貞治監督(67)の二女で野菜ソムリエの王理恵さん(37)と結婚延期状態の、医師・本田昌毅氏(37)が29日に開く、自著の出版記念会見でそば試食パフォーマンスを行うことが24日、明らかになった。本田医師は主治医を務める横綱朝青龍(27=高砂)に関する「朝青龍から笑顔が消えた本当の理由」(双葉社)を出版予定。
 結婚延期になった理由の1つに本田氏は、理恵さんが本田氏のそばの食べ方を気にしたと打ち明けていた。本来なら日本そばは音を立ててすする方が粋だとされるが、本田氏は「音を立てないようにする」と反省。復縁を希望する本田氏がラブコールの意味を込め反省した食べ方を披露する。

日刊スポーツ[2008年1月25日6時34分]
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文脈から判断すると、話題の主においては「蕎麦の食べ方、つまり音を立てて食べる」そのことが理由で、所期の目的が達せられなくなった模様。そのリカバリーのために、「反省」の意を「体で表す」予定らしい。

私が問題とするのは以下の3点。

①そもそも蕎麦は音を立てて食べてこそ美味いのであって、そのことを「気にする」という一方の側の大間違い。

②上記①の大間違いに対して、わざわざ「音を立てぬよう」に大間違いの上塗りをする大間違い。

③上記②をご機嫌取りの手段としようとしている一方の側の姑息な態度。


①に対してのこと。
一度だけでいいから「音を立てずに」蕎麦を喰らってみたらいい。

こんな不味いものはない。他人のその様を周りで観ているだけで、自分の蕎麦が不味くなる。
五十歩譲って、美味い不味い、好き不好きは感性の領域のこととして議論する余地を残すのならば、そうした指摘をした者の前で蕎麦を喰らってはいけない。

誤解があってはいけないので、正確を期すと「隠れて喰らえ」と言うわけではない。
嫌気を表す人の前で、その気配を感じながら、わざわざ喰らう必要は無いということ。
時と場所を別にして正々堂々と思いっきり音を立てて蕎麦を喰らえばいい。
微笑を浮かべながら
「これから蕎麦を食べるので、他所に行ってて下さい」
とね。

私としては「気にする」人の翻意を促すつもりのものではない。
ただ、「蕎麦を音も立てずに喰らう」ことが、蕎麦の味わい方として間違いであるということを伝えなければなるまい。

次に②のこと。
本人が美味いと信じて音を立てて蕎麦を喰らい、そのことが蕎麦を喰らう際の作法として大方が一致しているのにも関わらず、何故に先方の大間違いを認めてしまうのか。

むしろ音を立てることの方が理に適っていることについて、指摘をすべきだ。
先方を論破せよ、説得せよ、など言うつもりなど毛頭無い。
ただ一言でいい。
「間違っているよ」って。

そう指摘をしないことは先方の間違いを、「間違いじゃない」と認めているに等しい。
今回は指摘をしないだけではなく、行動でもって「間違いじゃない」と認めようとしているから、さらに悪いと言える。

そして③。
もはや蕎麦とは直接に関係しない。
だが、その姑息なパフォーマンスの手段として蕎麦が選ばれてしまったことに、大変な迷惑を感じる。
そもそも、一方が他方を本質的に「嫌い」という理由付けをしようとするなら、もっと他の理由があったんではないか。



もちろん、ここから先は一般論としてであって、おいそれとここに固有名詞が登場する方々のことを論じるつもりはないが、蕎麦を食べる時の音が嫌…なんじゃなくて、食べてる人が嫌…っていう可能性あるよね。
これも可能性の問題として。

その話題に蕎麦が登場してしまったことが、当てられ損の交通事故のようなもので、蕎麦好きとしては言いようも無く悲しい。

というわけで、「一般論として」、蕎麦を大きな音を立てて喰らっていることを指して、それを嫌うような人とは、お近づきにならない方が身のためと思う。

あるいは、蕎麦を食べる音のことなど持ち出さずに、面と向かって嫌なら嫌と仰ればいい。

スパゲティーを音を立てずに、上手にお召し上がりになったって、嫌なものは嫌だ、と思うのだが。

さもなければ、そのお相手とはくれぐれもご一緒に蕎麦を食されぬよう、ご一緒にとあらばスパゲティーを召し上がれ。

繰り返すが、もちろんのこと一般論としてだ。


<おしまい>


2008年1月24日木曜日

ビリーズブートキャンプが大ヒット!!  TVショッピングの「ショップジャパン」

※アメリカン・ホームドラマのTV版吹き替え風に…

ハーイ、みんな元気~か~い?
今日は、あのッ! そう…ビリーズブートキャンプが大ヒットした、TVショッピングでお馴染みの「ショップジャパン」からのお知らせだ。

しっかり聞いてくれよ~。

まず、「ショップジャパン」なんだけど、知ってる?

オークローンマーケティングが運営するショッピングサイト…だねッ!
もう、何度も見たり、聞いたりしてくれてるから…
み~んな、もう知ってるよね~!

じゃ~あ、その「ショップジャパン」のビリーズブートキャンプなんだけど、さらに進化して「エリート」となって帰ってきたんだけど、そのこと知ってるかい?

このブートキャンプエリートは、
「キツくて続かなかった…」
とか、
「時間がなくて…」
な~んてね、いろんな理由くっつけてビリー隊長のもとを去って行った、そんな除隊組…
そう! そこにいるアナタのことダ!
そんなアナタでも続けられるプログラムというわけなんだ。
さあ! 今度こそ、ビリー隊長が待ってるゼッ!

さらにだ…。
こ~んな調子…かどうかは、聞いてみてのお楽しみなんだが…、

「日本語吹き替え」機能がついてるんだっていうから。

日本語で激励されるのって…ソレ待ってた人…けっこう多いんじゃあナイ?

というわけで、ビリーズブートキャンプ エリート… 待ち遠しいね!


さ~て、このビリーズブートキャンプはのモチロンなんだけど、その他の売れ筋商品や現在放送中の商品などを、ここに一挙に並べちゃうとしよう。

ちょっと並べすぎって、叱られちゃうかもしれないけれど…
せっかくの機会だから、エ~イ…イッチャウヨ!

  
  
  
  
 

さあ、どう? み~んな観たことあるよね!

そう、わが家では、あの「スイブルスイーパー」が大活躍中だ!
知ってると思うけど、写真では一番上の右側にあるアイテムだ…

実は、ウチのかみさんがねッ、勤め先の仕事場で便利に使ってるのを見て、
「ウチにも欲し~いノッ」
て、おねだりされちゃった。

それでもって、ほ~んの軽~い気持ちで、
「ホームセンターで売ってたッ!」
な~んて言ったもんだから、

「アレは、ニ・セ・モ・ノ…」
って、キツーク叱られちゃったワケ。

それで、ショップジャパンさんにお世話になった! っていうイキサツ。

おーっと、巻きが入ってるね…

そろそろ…、尺をオーバーしちゃったって怒られそうだから、まとめにしましょッ!


※社会派ドキュメンタリーのナレ風に

世界中からユニークなアイディア商品を茶の間にお届けする…ショップジャパン
さて、次は何が登場するのか?

一瞬たりとも、ショップジャパンから目が離せない…

・・
・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・ ハーイ OK!

じゃあ、コレ、いただきで~す。


お疲れ様でしたァ…


<おしまい>


2008年1月20日日曜日

消費者行政・消費者庁(仮)を見掛け倒しにしないで…

「消費者庁」を創設しましょう…とは、なんともお題目は素晴らしい。

ただ、その実効性について、今ひとつ実態が見えてこない「消費者行政」のこと。

生活者・消費者が今回の福田さんによる施政方針演説の中心に据えられた…
要するに、文脈における主語から判断するに、みんながみんな中心ということか?
まさか、演説における論旨を調えるための、文脈上の中心ではないでしょうね。

聞き取りが間違っていなければ、分け隔てなくアナタもワタシも生活者であり消費者なわけで。
アナタとワタシの、概念的な利害の、最大公約数だか最小公倍数は…、一体どこに。

「生活者・消費者」の一人としては、その必要性(生活者・消費者を大切にする…という理念)について、異論を挟む余地は無いのだが。

その理念について実効性を(十分に)担保する方策は、従来どおりの市民運動などではなく、法制化されるという方針、それには基本的に賛同する。

もちろんのこと、実効性を伴う具体策あってのことだが。


<おしまい>

アルバム

 私はアルバムの整理が苦手です。いや、苦手というより、もはや仕事にならないといった方が正確かもしれません。なぜなら、1枚また1枚と手に取るたびに見入ってしまうから。その都度手が止まってしまいます。

 昨年は、この苦手なアルバム整理のために、敢えて同じ型番の新品アルバムを10冊まとめて買いしました。

 これまでのアルバムを取り出してみます。誕生から小学校卒業までの2冊は両親の手によることが明らかです。台紙の4隅に袋状のコーナーが、いちいち丁寧に手作業で貼り込まれ、写真はそれに支えられています。

 中学と高校と卒業のたびに各1冊、ここから先は自らの手で整理が始まりました。

 大学に進んだ直後、一眼レフカメラを手に入れた頃から、プリントとマウントしたポジフィルムが一気に増え、当時のプリントは黄ばんだデパートの買い物袋に無造作に詰め込まれています。さらに、娘が生まれたのを機に、出始めたばかりのオートフォーカスの一眼レフに換え、さらに増え方が加速しました。

 整理すると決心したきっかけは、中学・高校生の頃を集めたアルバムから、写真が脱落してしまったことです。そのアルバムとは、弱い粘着性のコーティングを施した台紙の上に自由にレイアウトし、透明なフィルムをピタッと被せるタイプ。その台紙の粘着力が落ちたために、写真が束になってアルバムケースの奥に集まっていました。だから、今回アルバムを購入する際には、それに似たファイリングのシステムは避け、できるだけ手の掛かるタイプを選びました。

 さて、10冊もの真新しい空のアルバムを前にすると圧倒されました。整理を始めてみたものの予想通りなかなか捗りません。収める先があればやらざるを得ないだろう、プレッシャーをかけるつもりで、軽い気持ちで始めてしまいましたが、正直なところちょっと後悔しています。

 でも、なんとかやり遂げなければとも思うと、複雑な気持ちです。

 こんな調子で整理していては、貯めこんできたと同じ位の時間がかかるかもしれません。が、果たしてそんな時間が残っているのかな。

 楽しくもあり、しかし、悩ましくもあるアルバム購入です。


<おしまい>


2008年1月13日日曜日

温泉にBGMは要らない…という考察

南信州には市町村が経営の主体になって、あるいは経営に参画するスタイルで運営される温泉が多数ある。

民間の施設を合わせると、その数は更に増えることになる。
草津、有馬、下呂といった「天下の三泉」にみられる温泉ブランドを形成しているとまではいえないが、各泉それぞれが個性的な企画やサービスで、世の温泉好きを楽しませてくれている。

これだけの数があると、行き先を決めるにあたって迷ってしまう。

私の場合は、そのときどきのスケジュールや、その日の気分、あるいは連れの有無、構成など、様々な要素によって、行き先を変えたりしている。

往復2時間以上もの道のりを覚悟で遠方の温泉に向かうこともあれば、ほんの近場の温泉で済ませることもある。
そういった意味で、温泉に関しては多分に浮気性である。


さて、わが家からクルマで1時間と少しの距離に、それぞれ自治体が経営に加わっているといわれる温泉施設が2箇所あって、2つはクルマで10分未満の位置関係にある。

境を接する隣どうしの町村だから、あからさまにはそうは表現していないかもしれないけれど、経営的には確かに互いにライバルといっていいと思う。

この2箇所に限らず、広くは全国の各温泉に、その泉質はもちろんのこと規模、施設あるいはサービスなど、全てが個性的であって当然だし、その個性をして好き不好きがあって当然である。

しかし、温泉がいかに個性的なサービスを提供してくれたとしても、個人的に譲れない一点がある。
その一点とは、タイトルにも記した「BGM」のことである。

具体的には、先に掲げたライバルたる2つの温泉の決定的な違いにみられるのが「BGM」の有り無しということだ。

私は迷わずBGMの無い温泉を選ぶ。
一方の温泉には音の演出がない。
このことが、私にとって何よりのサービスなのだ。

しかし、他の一方は絶え間なくBGMを流している。
たとえばハンドベルでヒーリング・ミュージックを奏でるような、ゆったりとした曲想のBGMだ。
そうした曲想を選んでいることには、それなりの意図があることは理解できる。

ハードロックやパンクでもなく、演歌、浪花節、義太夫語の類でもない。

温泉と音楽で癒されて下さい…とでも言いたげだ。

そうした環境を積極的の好む人、気にならない人が居ても、それはそれとして、そうした嗜好に何ら申し上げることはしない。

申し上げたいのは、余計な音の無い、静かな温泉に、静かに浸かりたい人だって確かにいるということ。

静かに…、
とか、
音の無い…、
と言ったって、録音スタジオのような遮音性能を期待しているわけではないことは明らかであって、当たり前に発せられる温泉ならではの環境の音があって当然だ。

設備も何も要らない。
難しいことではなくて、PAの設備を使って、つまり、スイッチをオフにして、不要な音をPAに供給しなければいい。
ただそれだけのことで、実現できる。

ぜひともBGMが聞こえないと温泉に入った気がしない…という人がいたとして、そうした人と議論して、論破を試みて、結果的にその温泉のBGMを止めさせよう…なんて考えているわけではないので、好き勝手の言い放しかもしれないが。


ところで、提供する側が一方的に良かれと思って放っている音といえば、この温泉の例に限らず、いろいろなところにあると思う。

イヤなら、そこに行かなければ…、それを選ばなければ…、それで回避できる場合はいいのだが、その余地が無い場合は、「音の暴力」といっても言い過ぎではないと思う。

今日も、聞くとは無しに親子の会話や、ご近所の新年会の流れと思われる人たちの会話が耳に届いた。

こうした背景音はぜひとも歓迎だ。


<おしまい>


2008年1月10日木曜日

リアプロジェクションテレビ(Rear Projection TV)

リアプロジェクションテレビ(Rear Projection TV)の光源を交換しました。

そのTVはE社の製品で、2005年4月購入ですから、2年と8ヶ月経っています。

リアプロジェクションテレビとは、ご存知でない方のために一言だけ触れますが、外見は厚さの点を除いて液晶だとかプラズマなどの大型画面のテレビとはあまり大きな違いはありません。
ただ、仕組みが全然違います。

プロジェクターというと前面に画像を投影しますが、略してリアプロは後ろから投影して前で観る…雰囲気お分かりですか?

要するに障子に「幻灯(Magic lantern)」を写して、その障子の裏側から観るようなもの。
幻灯と言って更に分かりづらくなったかもしれませんが、そう…スライド写真とか影絵、そんな雰囲気です。
もちろん、例え話のうえのことで、まさか幻灯機や影絵に映してでテレビを見ているわけではありませんよ(笑)

だから、かなり強い光源から発せられる類の光には弱く…、つまり光負けすることや、若干角度をつけて「ハスに構えて」眺めると上手く見えなかったり、画像を構成する素子そのものが自ら光を発する仕組みである液晶やプラズマと言われるテレビに比べて弱いところがあります。

でも、日常の照明環境で正面から観るにはまったく不満はありません。

さて、本論ですが、購入した際に光源であるランプの劣化に伴う交換が必要である旨は理解していたのでしたが、5~6年はもつとたかをくくっていました。
ところが、ほぼその見通しの半分しか経過していないのに、年明け早々に光源の交換を促すランプが点灯したのです。

見通しの根拠はこうです。
交換の目安が1万時間…1万時間といえば、1日5時間の視聴をして2000日。
これは単純計算で5年と5~6ヶ月。

その見通しの半分と言うことは、これまた大雑把に計算して1日10時間、観ていても観ていなくてもTVが点いていたことの証明でもあります。

TVの機能として、この1万時間の目安を積算するアルゴリズムが仕組まれている様子ですから、それに狂いが無い限りは、その事実を厳粛に受け止めるよりほかありません。

ただ、いきなりその事態を受け止めることができませんでした。
要するに製品の異常じゃないの? って。
即クレームだ…なんていう勢いでした。

だって、24時間しかない1日のうちの10時間です。
まして健康的な睡眠時間を除くと、16時間のうちの10時間。
それも1日平均ですから、明らかに旅行などにより家を空けていた時間のマイナス累積時間を計算に入れると、テレビを点けていたとされる1日当たりの平均視聴時間は10時間を超えることが明白なわけです。
驚くよりほかありません。

食事しながら…なんて朝飯前のこと、否、当たり前のこととして、本や新聞を読みながら、インターネットしながら…、そうした中でも点けていなかったら達成(笑)し得ない時間ではないですか?

年明け早々から、図らずもわが家の生活スタイルを再認識する契機となった模様です。

よくよく考えれば、日中はともかくとして、夕食時過ぎから映画・映画…と1時、2時の夜更かしをしていれば、それだけで簡単に5~6時間は累積するわけで…、そう思えば積算は正しいのでしょう…というのが当面の結論となったわけです。

いかんいかん。


<おしまい>


2008年1月3日木曜日

新年早々から…相関関係と因果関係の関係について

「相関性と因果関係」というテーマに惹かれた。

お屠蘇気分で横になりながら観ていたTV番組の中でのこと。
メインテーマというより、番組の中ではコーナーテーマ程度の扱いだった、と薄っすら記憶している。

番組内での扱いとしては、言葉の端をついて論じられた、出会い頭の交通事故のような議論だったかもしれない。

それはそうかもしれないが、確かに私は関心を抱いた。
その内容であるが、例えば、
「ヨーグルトを食する集団…」
ということと
「その集団が長寿だ…」
ということの相関関係について。

ここでの議論は、相関関係は認識されるとしても、因果関係を結論付けることはできない…ということについてだった。
これも、当該番組の中でのコメントについて、私なりの要約だ。

だから、特定の商品名を冠せられた「何とかヨーグルト」の市場における評価について、とやかく議論するものではなかった。
ヨーグルトは例として引用されただけである。

「何とかヨーグルトを食べると長生きする」
ということについて、「仮」に相関関係が確認されてても、それが「確か」な因果関係に無い…という議論なわけで、したがって、因果関係に無いからと言って「何とかヨーグルト」が「偽」と言っているわけではない。まず、このことを述べておかなければならない。


さて、番組を見終わって印象に残ったのが、実際に相関関係と因果関係の関係について考えさせられる場面のことだ。

それが広告宣伝という場面だ。
広告宣伝やCMの表現の多くに、相関関係を述べ立てて、すなわち因果関係があるかのような錯覚や誤解を読者・視聴者に与えるような作りが見られることを再認識した。

私の中では、例えばダイエットに関する広告がそれに当たる。

○○ダイエット食品を一定の期間に使用したら、あるいは、□□器具を使用したら▲Kgの減量に成功しました…

典型的な広告パターンだが、それらを使用した多くの人に減量の効果があったという事実を述べるも、減量効果について直接的な因果関係を厳密に述べるには、おそらく科学的な手法に拠らなければならないのだと思う。

だが、それらの相関関係を頼りにして購買し消費した消費者が、厳密に因果関係を証明せよ! と主張するだろうか。

否、主張する傾向にある人は購買しない、消費しない。

「私は相関性から外れないだろう」
と何らの根拠も無く予測できる、または、信じることができる人こそが、購買し、消費していると予想する。

先の例では、食品と長寿の関係については医学的・栄養学的あるいは民俗学的・社会学的な各観点から、相関関係の有無を統計的に把握し、かつ、それを証明するために相関関係に無いサンプルを見出して、例えば、その食品を食さない集団は短命だ…とでも証明しない限り、因果関係を結ぶことはできまい。

しかし、CMの世界では厳密な因果関係までは求めていない。

かえって、因果関係を強調することが誇大表現になったりする場合がある。

だから、因果関係までには言及せずに、相関性があることのみを強調して、その先は読者・視聴者の想像の世界に委ねる、いわゆる「雰囲気」に任せる。

ただ、穿った見方をすれば、中には相関関係の証明だって危うい場合があるかもしれない。

このように、因果関係もなく、相関関係すら怪しい場合を世間では「嘘」とか「偽」と言う。


ここで抱いたのが、広告を作る側、表現する側が「嘘」や「偽」を助長してはいないか…という疑問だ。
表現者は、その対象となる商品や製品、サービスについて与えられる資料から、相関性を信じて表現に臨むしかない。

定量的な数値だけを掲げるのなら、それは資料ではあっても広告ではなく、まして表現などとは言わない。

だとすれば、「これを食べたら腹が膨れる…」あるいは、「これを飲んだら酔っぱらう…」といった具合に、表現者が直接に定性的な因果関係を確認できるもののほかは、相関関係には定量的にも定性的にも危うさを含んでいることを承知して、表現に向かわなければならないと感じた。


<おしまい>


2008年1月2日水曜日

正月といえば「とろろ汁」


正月2日の朝はとろろ汁を頂く習慣があります。


すり鉢に松本平は山形村産の長芋をすり下ろし、

だし汁と合わせて鉢を一杯ににします。


ポイントはすりこ木でしっかり滑らかにすること。

だし汁のかくし味に日本酒をケチらないこと
(かくし味どころではなく、酔うほど、目立つほどに…)





お好みで、青海苔と細かく刻んで水にさらしたネギをかけて頂きます。


子供の頃から、何杯食べられたかが得意話のネタでした。

ちなみに、今年を占う食の成果はご飯茶碗に5杯でした。


きっといい年になりますように。


<おしまい>