2008年1月3日木曜日

新年早々から…相関関係と因果関係の関係について

「相関性と因果関係」というテーマに惹かれた。

お屠蘇気分で横になりながら観ていたTV番組の中でのこと。
メインテーマというより、番組の中ではコーナーテーマ程度の扱いだった、と薄っすら記憶している。

番組内での扱いとしては、言葉の端をついて論じられた、出会い頭の交通事故のような議論だったかもしれない。

それはそうかもしれないが、確かに私は関心を抱いた。
その内容であるが、例えば、
「ヨーグルトを食する集団…」
ということと
「その集団が長寿だ…」
ということの相関関係について。

ここでの議論は、相関関係は認識されるとしても、因果関係を結論付けることはできない…ということについてだった。
これも、当該番組の中でのコメントについて、私なりの要約だ。

だから、特定の商品名を冠せられた「何とかヨーグルト」の市場における評価について、とやかく議論するものではなかった。
ヨーグルトは例として引用されただけである。

「何とかヨーグルトを食べると長生きする」
ということについて、「仮」に相関関係が確認されてても、それが「確か」な因果関係に無い…という議論なわけで、したがって、因果関係に無いからと言って「何とかヨーグルト」が「偽」と言っているわけではない。まず、このことを述べておかなければならない。


さて、番組を見終わって印象に残ったのが、実際に相関関係と因果関係の関係について考えさせられる場面のことだ。

それが広告宣伝という場面だ。
広告宣伝やCMの表現の多くに、相関関係を述べ立てて、すなわち因果関係があるかのような錯覚や誤解を読者・視聴者に与えるような作りが見られることを再認識した。

私の中では、例えばダイエットに関する広告がそれに当たる。

○○ダイエット食品を一定の期間に使用したら、あるいは、□□器具を使用したら▲Kgの減量に成功しました…

典型的な広告パターンだが、それらを使用した多くの人に減量の効果があったという事実を述べるも、減量効果について直接的な因果関係を厳密に述べるには、おそらく科学的な手法に拠らなければならないのだと思う。

だが、それらの相関関係を頼りにして購買し消費した消費者が、厳密に因果関係を証明せよ! と主張するだろうか。

否、主張する傾向にある人は購買しない、消費しない。

「私は相関性から外れないだろう」
と何らの根拠も無く予測できる、または、信じることができる人こそが、購買し、消費していると予想する。

先の例では、食品と長寿の関係については医学的・栄養学的あるいは民俗学的・社会学的な各観点から、相関関係の有無を統計的に把握し、かつ、それを証明するために相関関係に無いサンプルを見出して、例えば、その食品を食さない集団は短命だ…とでも証明しない限り、因果関係を結ぶことはできまい。

しかし、CMの世界では厳密な因果関係までは求めていない。

かえって、因果関係を強調することが誇大表現になったりする場合がある。

だから、因果関係までには言及せずに、相関性があることのみを強調して、その先は読者・視聴者の想像の世界に委ねる、いわゆる「雰囲気」に任せる。

ただ、穿った見方をすれば、中には相関関係の証明だって危うい場合があるかもしれない。

このように、因果関係もなく、相関関係すら怪しい場合を世間では「嘘」とか「偽」と言う。


ここで抱いたのが、広告を作る側、表現する側が「嘘」や「偽」を助長してはいないか…という疑問だ。
表現者は、その対象となる商品や製品、サービスについて与えられる資料から、相関性を信じて表現に臨むしかない。

定量的な数値だけを掲げるのなら、それは資料ではあっても広告ではなく、まして表現などとは言わない。

だとすれば、「これを食べたら腹が膨れる…」あるいは、「これを飲んだら酔っぱらう…」といった具合に、表現者が直接に定性的な因果関係を確認できるもののほかは、相関関係には定量的にも定性的にも危うさを含んでいることを承知して、表現に向かわなければならないと感じた。


<おしまい>