2008年4月30日水曜日

勝手に広報します。 「特定非営利活動法人 green bird」 のこと



こうしたブログの広報姓を利用したであろう社会貢献プログラムとして、
特定非営利活動法人 green bird
が発信する、
「次の休日、一緒におそうじしてみませんか?」
というタイトルのリリースがあった。

こうした場合には、りりースの企図するところが2つあると思う。

① そのプログラムを運営する組織なり団体、そのものの名前の認知向上を図ること。
② 本来の目的とする活動、そのものへの参加や協力、理解を促すこと。

今回のリリースは私にとっては、②の要素が大きかった。

http://greenbird.jp/

そもそも、「green bird」の取り組みについては、全国的ネットでTVに採り上げられていたりするから、私のような情報、文化に関して辺境の地のいる者であろうとも、その存在は認識していた(笑)。

ただ、徒党を組んで寄って集って(笑)、大勢が集合する何かのイベントに参加してというわけにはいかず、その組織の趣旨に賛成の立場でいて、かつ、黙して「ポイ捨てしない宣言」をし、遠くから見ているに留まっているのがせいぜいだった。

その折、こうして組織の存在や活動内容の広報というところで参画する機会を得て、微力ながらも協力させて頂いているところだ。

さて、経緯はともかくとして、人はいつ頃からゴミのポイ捨てなど、心無い行為をするようになってしまったのか。

一方で、人為的な不心得なゴミを拾って集める人々がいながら、一方でその真反対の者がいる。

大真面目に
「ポイ捨てしないで」
とか
「かっこ悪いゼッ」
って、啓蒙して回る人々がいる。

人為的な心無いゴミのほかにも、自然に街路が汚れることはあるわけで、そうした意味で、こうした運動の全てが悪に対峙しているものとは考えない。
仮に、ポイ捨てが絶滅したとしても、善意の清掃活動が存続する可能性は極めて高いし、その存続に値する理由があると思う。

全体の中に占める善玉・悪玉の陣取り合戦のようなものだと思う。
善悪に関する二言論の危険性を承知した上でのこと、ポイ捨てという行為について如何なる理屈が尽くされようとも、そのことに正当性を認めるわけにはいかない。
だから、ポイ捨てを否定し、そのゴミをキレイにする人々の活動は、ゴミをキレイにすることにおいて理屈無く善なのである。

ポイ捨て撲滅といっても、ポイ捨ての行為を無くすことであって、そうする人を撲滅するわけではないわけで(笑)、どうそりゃイイんだろう。やはり、陣取り合戦なわけで、味方をいかに増やすか。

積極的な「ポイ捨て派」がいるかどうか不案内だが、しかし、少なくとも公然と「ポイ捨て促進運動」を展開している一派がいるという情報は得ていないので、となれば陣取り合戦においては、理論上は時間の問題で解決できるはずなのだが(笑)

ニューヨークだったと思うが、地下鉄にし放題だった落書きを無くしたら、その街に治安が回復したと聞いた。
二つに因果関係とまではいえないものの、相関関係が見出せるらしい。

ホームページには、いみじくも
green birdとは、『きれいな街は、人の心もきれいにする』をコンセプトに誕生したプロジェクト」
とある。

ここで「人の心」にまで言及していることについて、そうありたいという運動主体の気持ちは理解できるものの、私としてはここで精神論までを持ち出すことには多少の疑問を感じながら、しかし、街がキレイになる…、キレイなままである…、そのことには手放しで期待したいと思う。

ここで、こうして、このテーマで、大真面目にキーボードに向かっている、…私にその機会を与えたことだけでも、このプロジェクトは、ほんの少しだけだけれども、価値があったと思うよ。

ホント。

<おしまい>


2008年4月28日月曜日

ボランティアに参加のお願い / health for all (すべての人に、保健医療を)

ブログパーツを通じて大きな問題の解決に参加してみませんか?
今回はボランティアとしての参加のお願いです。

すべての人が必要な保健医療を受けられる世界を作りだす。
こんな「変革:Change」に、今すぐ参加しませんか?

参加の方法は簡単。

オックスファム・ジャパンのMe Too署名フォームから、名前を記入していただくだけです。



届いたリリースによれば、現在、1日に3万人以上の人々が予防と治療が可能な原因で命を落としているそうです。医療が不足している…らしい、という雰囲気は判っていたつもりですが、数字まで提示されて理解したのは、今回が初めてでした。

月並みな感想ですが「ショック」です。

私たちは、当たり前のようにして、必要な時に医師にかかることができ、薬を買うこともできます。

しかし、世界の多くの人々にとって、これは「叶わぬ夢」であることが、まるで「当たり前」のようになってしまっています。

だから、その「叶わぬ夢」を「叶う夢」にできるようにと、いま『「me too!」キャンペーン」』が展開されています。

保健医療サービスの欠如は、人々に大きな代償を強いています。想像しがたい数の人々が、予防・治療可能な病気によって命を落としています。
●毎分1人の女性が、妊娠や出産に関する問題で亡くなっています。
●4,000人の子どもが、下痢で命を落としています。
●1時間に300人もの人々が、エイズによって患った病気で亡くなっています。

キャンペーンの内容は、今年7月に北海道洞爺湖で開催されるG8サミット(主要国首脳会議)に向けて、日本全国からの声を集める呼びかけをしているとのことです。

すべての人が必要な保健医療サービスを受けられるよう、署名、または、このブログパーツをあなたのブログに貼ることでボランティアにご協力いただけないでしょうか。

ささやかですが、私のブログにもパーツを貼りました。ご参考としてください。

https://www.oxfam.jp/whatyoucan/campaign/blogparts.html

あなたのブログに貼られたブログパーツを通じて、この切なる願いを大きくすることができます。

「すべての人に、生きるチャンスを」



皆さんのご協力を、ぜひお願いします。


2008年4月25日金曜日

そもそも、火が走るわけではない。

「火」とは、「化学的には物質の燃焼により発生する現象」と定義するらしい。

あまりにも、身近に過ぎて、なにも難しい説明をする必要もないと思う。
さらに、人類は火を手に入れたことによって、人類たる根源を得た、とも言われている。

人だからこそ、火が使える、一定の範囲内であればコントロールすることもできる。

ところが、ここ1ヶ月に満たない期間のことだが、火という化学現象に、人間たちは翻弄されている。
制御されてさえいれば無害のはずの化学反応に、まるで人間がコントロールされているようだ。

まるで脚のある「火」がタラップを降りてきて、日本の大地にその第一歩を標し、そして一路長野市に向かっている…といった言われ方をした。
何なのか、その誇張表現。
今日一日の報道に見られる、例の一件に関する大方の姿勢だ。

例の一件とは以って回った言い方だが、当然に北京オリンピックの聖火リレーこと。
(わが国で聖火とはよく言ったもので、英語では単にトーチ…松明「たいまつ」なのだが…。もし、トーチに「聖なる火」の意味を与えたとすれば、それはヒトラーのナチスドイツ、あのベルリン五輪以来のかなり後発的な理由によるはずだ。)

そもそも、あの曰くつきのベルリンオリンピックに際して始まったという、なんとも因縁めいた歴史が、その何たるかを物語っているようにも見えるが、かなりバイアス気味の見方かな?

今回のオリンピックに限らず、その火が消えたらな消えたで、マッチやライターによる化学反応、燃焼と何が異なるのか、私には理解できない。
正確のために記すが、今回のオリンピックだから言っているわけではない。
どこそこの人権問題とか、何とかの弾圧の問題とその化学反応の結果を位置的に移動させる問題とが関連付けられているが、ここでは、そのこととは切り離して論じている。

そのこととの関連まで、ここで論じようとすると、ちょっと荷が重い。
だから、その役目は別の場所に譲ろう。


本論に戻って、化学反応の結果であり、その結果の連続性に対して、さも人格が宿ったかのような特別な扱いをもって報道し、評論するのか。

彼の国が自ら仕掛けた一大プロモーションが、果たして彼の国の内国問題として、その問題に対する言論が国内に集中していることには、そもそも彼の国の政府が企図したところなのではないか…などという穿った見方さえしてしまう。
いわゆる彼の国における国家主義の増長、増進という画された現象だ。
(しかし、その「火」の経路、行く先々で、彼の国が意図しない、もう一方の問題の存在をも喧伝してまわっているとは、何とも皮肉なものだ)

さて、
「話題の化学反応の産物は、無事にその反応の状態を継続して、絶やされること無く継がれていくのであろうか」

反応を継続させることに努力も必要だが、継続を絶たれた反応を回復する知恵を、われわれは備えている。
マッチとか、ライターという知恵は、この場合には知恵とは言わないのかな?
「悪知恵」なのかな?

そんなに、しゃっちょこばらずに、なるようになれば、いいんじゃあない。
もっと、お気軽に、お気楽に。

命懸けて守るなんて…消えちゃったら、
「あっ、消えちゃった」
…なんて言いいながら、
シュッ…、
あるいは、
カチッ…、
はたまた、
シュボッ…てね。

「継がれる」を企図した化学反応が、何らかの理由で耐えたって仕方ないじゃない。


それにしても、3000人ものポリスまで投入して、維持すべき化学反応って、いったい何なんだろう?
まかり間違って、そんな馬鹿馬鹿しい理由、つまり化学反応が途絶したことを理由に、人が責任を問われたり、結果として人生を棒に振ったり、まして誰かが傷ついたり、それが原因で諍いになったり、戦争が起きたり…そんな愚かしいことは、起こり得ない、そう信じたい。

とかく、そうした馬鹿馬鹿しいことを、馬鹿馬鹿しいと理解していながら、我々にはその馬鹿馬鹿しいことを何度となく引き起こしてきた歴史がある。

今回のことにしてみても、自分たちのことを十分に信頼できていない。

それが、なによりも悲しい。





2008年4月22日火曜日

国に対する信頼の尺度と対価

ここでいう信頼とは、国民が国に寄せる信頼のことである。

それを何で測るのか、さまざま物差しがあろう。
だが、ここで敢えて私は「税率」という点に着目したい。

私なりの結論から申し上げると、国に対する信頼は税率に比例する…という相関関係があるように思う。

というのは、わが国の所得税率は欧米諸国のそれに比較して、最も低い。
消費税率も然り。
では、そのことを手放しで満足できるのか、自慢すべきなのか?
否、そう単純にはいくまい。

わが国の現状に鑑み、高税率を素直に可とすることはできない。
その理由はどこにあるのか。

課税主体、つまり国が信頼されていないからではないか。


かくのごとく、国民が国に寄せる信頼の度合いは、この税率によって測ることができると思うのだが、皆さんは如何だろう。

確かに、何の根拠もなく高い税率を自ら望む者は無いであろう。
しかし、高い税率であっても確実にして高いリターンが保証され、かつ、税の使途に対する透明性が担保されていさえすれば…話が異なる。

そう思うと、今般の暫定税率法案の趨勢に関して取り沙汰された様々な議論に、信頼の何たるかについて縮図を見ることができよう。

だれしも負担(税)は少なく、されど必要な負担として大方が認めるものは已む無し、の構えだ。

税金が安い…というのは、とりもなおさず、国家が信頼されていない…ということではないか。

国民生産の再配分という意味における税の必要性、妥当な負担を認めながら、しかし、担税の妥当性を担保する手段と配分の方法などには、ただ今のところ疑問を呈さずにおられない。

取りも直さず、私が国に対して信頼を寄せていない証である。

<おしまい>


2008年4月20日日曜日

2008 春~初夏の恵み

友人からの思いがけない、春の恵み。
お裾分けがありました。


本日、午前中に獲れて、午後一番に撮れています。

泥つきですが、写っていますか?

正真正銘の獲れたてなので、刺身でも…
と思いながら、
灰汁抜き用の糠を買い求めに走ります。

「友よ、わが家は何でも喰らうからな!」

心配せずに何でも持ち込まれよ…だ。




というわけで、記念の…、証拠のワンショット。

ついでに、身近な草花の現況を写真でレポートします。



母の日間近、庭のカーネーション。

「u…、…m」



タラの芽のなれの果て。

食す、食さない…の限界点。

でも、僕は6月末のそれまで、美味しく頂くのだが。

要するに、天ぷらにしたところで、

苦い…、
とか、
苦くない…
とか、

嗜好の分かれ道…。

お嫌でしたら、無理を為されずに…



他様に比して、肥料不足を否めない「吉野つつじ」



源平桃

正式名称か、詳しくは知りませんが、

源平、即ち、紅白のたとえ。

1本の桃の木に紅白入り乱れての開花は見事なはず(?)

花が早すぎたのか、思ったほどに咲かなかった。

苗木から、たった3年目の春だから…

とは、親バカなりか?




前回に同種の企画で予告した

「月桂樹の花」

確実にほころんでいる。



全盛を前にハナミズキ。



フェンネルの新芽

何度かの冬を越して、わが家にその存在を明らかにし、

居場所を確保した模様。

「あやかりたい」

目立たないけれど、魚介類とオリーブオイルの親しい友人。

オススメは口中の清涼感、…まさに、サラダが絶品。

でも、好き不好き…強制はしません(笑)

胃の調子の悪い人、かつて悪かった人には、

どこか懐かしい風味がすることでしょう。



さて、しんがりに控えしは…タラの芽ならぬ「葉」です。

天ぷら感覚で素揚げが好きです。

一振りの塩。

至極の食感。

友人によりもたらされたタケノコと

わが家のタラの"葉"…

夕餉は春のコラボを予定しています。


友よ、ありがとう、タケノコ…

友よ、わらび、ぜんまい…OKです。

友よ、その他、口に入るものは何でもOK。

(但し、冷凍食品は餃子を始めとして生き物として拒否反応。
念のため、国の内外を問わず、メーカーを問わず。)

友よ、ご心配なく…だ。

というわけで、ここで限定列挙した品を除き

わが家では大歓迎。

待ってますよ!

(笑)。


<おしまい>

2008年4月18日金曜日

善光寺さんの仏教連帯

まず断っておく。
「仏教連帯」とは私が勝手に記した言葉だ。
話題は、北京オリンピックに際して長野市で開催される聖火リレーに関する予定変更の顛末についてだ。

世界各地から、当該聖火リレーにおける混乱が伝えられる。
その中、長野市でも、この4月26日にそれが予定されており、
「さあ、どうする」
と、国内・県内・市内とも騒がしかった(と思う)。

その長野市におけるリレーコースのスタート地点に、当初予定されていた「善光寺」が、今日(08/04/18)会見を開き、スタート地点たるを辞退した、と伝えられた。

会見の中で、寺の総務担当の坊さんが語った。
「善光寺も同じ仏教を信じるものとして…」
「人権の弾圧…(間があって)…憂慮する」
という意のコメントがあった。

チベット仏教と「同じ」仏教という意味であることは疑いようが無い。
はっきりと、チベット仏教との関係において、自らの立場を明らかにした例は、ニュース報道の中では無かったと思う(私の知る限り)。
さらに、人権弾圧を憂慮するとした。

「聖火リレーコースを変更する」
というニュースに接したときは、単に警備上の混乱を避けるため、つまり、予想される混乱が善光寺に及ばないために…そう、勝手に考えていた。
ところが、善光寺さんにおける問題は奥が深かった。
宗教、人権の問題にまで及んでいたのだ。

その意味は大きい。
ただ、弔い仏教、にわか神道たる私が言うことではないが(笑)

さて、長野市だが、それに同意したそうだ。
善光寺が長野市の象徴的存在はいえ、当市の所有物ではないから、市としては所有者がNO,といえば、従わざるを得ないだろう。当然だと思う。

ところで、そもそも、当初の決定の仕組みはいかに?…だ。

こうした事前の混乱が無かったらならば、今日のような善光寺さんの辞退問題も顕在化することなく…と思うと、チベット仏教と善光寺さんとの連帯の問題や如何に、だ?

北京オリンピックの開催決定の以前から、チベットにおける仏教弾圧や人権に関する問題はあったろうに。

だったら、こうした問題が表面化する以前に、スタート地点の辞退に相当する問題提起があってもおかしくないのでは?

このブログの書き始めは、例のTVニュースに接して
「やったな、善光寺さん!」
だった。
が、書き進めるうちに
「ちょっと待て」
になって、最後は
「わからない」
に、なってしまった。

ただ、是非について態度を明らかにしたことはエライ! としておこう。

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さて、これとは別の問題。
長野県警が当初予定していた警備要員の倍増を決めたそうだ。

警備に投入される県警人員を賄う予算は、いかに拠るものか。長野市にして然り。
だれの金でやってると思っているのか。
オリンピックと税金投入…国税ならまだしも、県税、市民税が充てられることの理屈を誰か、説明して欲しい。
誰かとは、当然に行政が、であるが。


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結局、県や市とて、集客力を競うという点では、「宗教法人なんとか寺」も「株式会社なんとかランド」も同じということか。

たびたびのことだが、とりとめもなく、終わりとしよう。

<おしまい>


後期高齢者医療制度と映画「ソイレント・グリーン」

今般の後期高齢者医療制度に関する一連の報道に際してのこと、当のお年寄りがインタビューに応えている姿を観ていて、なぜか映画「ソイレント・グリーン」を思い出した。

それは、1973年のアメリカ映画。
「人口増加により資源が枯渇し格差が拡大した、暗鬱な未来社会で起こる殺人事件とその背景を描いたSF映画」(Wikipedia)だ。人口爆発に伴う食糧不足、その対策として「
老人の安楽死」が制度化された社会が描かれる。

当時、2番館か3番館かで観終わってヘドを吐いた。
いま覚えているのは、チャールトン・ヘストンが出演していたこと、老人が公営の安楽死施設での安楽死する場面でバックに流れていたベートーベンの「田園交響曲」と美しくも「今となっては過去のものとなった地球の情景(映画のな中で)」のこと、それにヘドを吐いたことだ。

なぜ、報道に映し出された老人の姿からこの映画が連想されたのか。
それは「老人」、「安楽死」という言葉で繋がっている。
もちろん、この制度と安楽死、あるいは映画の核心部分とが直接に繋がっているわけではない。
あくまでも、飛躍に過ぎるかもしれない私の連想の中でのことと断っておく。

テレビの中で年寄りがインタビューに応える。
「これまで、何10年と働いてきたのに、国は老人に早く死ねっていてるようだ」
という趣旨の答えだった。

映画が作られたときからこれまでの時間より、ここから先に映画が描いた2022年までの時間の方が短い。
「一部の特権階級と多くの貧民という格差の激しい社会」(Wikipedia)は、映画の中のことではなく、すでに紛れもない現実の世界のことではないか。

私の近くにいる、普段から冷静にして温厚との印象の一人の年寄りが、私の目の前ではっきりと口にした。
「馬鹿にしやがって」

ソイレント・グリーンはともかくとしても、「
後期高齢者医療制度」とは、そういう制度なんだと思う。

<おしまい>


2008年4月17日木曜日

複製の理由

「複製の理由」とタイトルしたのは、ここでは取り敢えずの対象として、いわゆる国宝級の美術品に関してのことである。

昨日のこと、NHK「クローズアップ現代」の番組上で興味深い採り上げ方をしていたのが、本稿に至った理由だ。

さて、その番組の内容だが、掻い摘んで次の通りである。
つまり、国宝級の絵画や屏風絵などの美術品の保存に関して、それらの複製を作る必要性を述べた上で、さらにその先にある問題点が述べられた。

デジタル技術の進歩により美術品をスキャンして、高精細、高画質でデジタルデータにして保管することが可能になったという。
問題は、そのデータの使い途あるいは管理の方法についてである。

世紀の単位で遡る文化財には既に著作権が存在せず、したがって、その美術品には所有権なりが認められるだけ。したがって、所有者の了解、同意を原則に、著作権に縛られることなく複製ができる。
中には、所有者の同意を得るなどの手続き無しの場合もあるとのことだった。
契約書も無い場合となると、信義則に拠るより他なしなのだが、これも袖にされた由々しき結果なのだという。

番組中で最も印象的だったのが、一部の富に複製品が頒布され、所有され、公開されていることだった。
ある会社の社長室と思しき写真が映し出されたが、そこは、複製の国宝級美術品(ちょっと変な言い回しだが、取り合えず雰囲気で理解を願う)が壁から天井に至るまでの満艦飾だった。

法の遵守を前提に、富が美術品に向けられ、それを所有することには、基本的に口を挟むことはできない。そういう社会システムだから。
だが、「しかし…」と考えてしまう。

貴重な文化財を後世に残すために、紙・木の文化であるわが国においては、複製品を公開しオリジナルを厳重に保管する…。
そのことのためにデジタル技術を駆使することの意義は大きいし、必要性を認める。
しかし、そのデータの使い途が本来の企図を離れたときが問題だ。さらには、デジタルデータが故に何等の劣化も無く、容易に複製の複製、そのまた複製が作成され流布される「危険性」さえもはらんでいる。

何から何まで、法に基づく管理下におくことには基本的に反対だ。しかし、わが国の文化的財産の保護に、国の関与が足りないのでは、と考えてしまう。

番組の後半では、イタリアにおける同様の例として、ダヴィンチの「最期の晩餐」が引かれ、そのオリジナルの公開と保存に関する取り組みが紹介されていた。

そのままわが国に置き換えることはできないと思うが、当該公開・保存に携わる担当氏をして
「オリジナルこそが公開されるために存在する」
という意味で語った言葉が重い。

複製品であろうとも、それを承知で所有したり、飾ったりすることの哀れさよ。

レプリカの存在は、万が一のための止むを得なきオリジナル保存のためと心得よ。

なんとか遊園地の例ではないが、某著作権無視大国のことを、他人事とばかりは言ってはおられまいに…だ。

<おしまい>


2008年4月13日日曜日

春の一日

久しぶりに朝からゆっくりできた。

雨が来ないうちに、庭に出て春の一日をパチリ。


写真に収めないうちに盛りを過ぎてしまった草花もあって、
たいへん済まない気がする。

主の気分や天候などで、構ってもらったり
もらわなかったり、では迷惑だろうに。

今日の記録を
ランダムに並べておこう。




スノーフレーク
 (恩師からのお裾分けが立派になりました)




桂の葉
 (愛らしいハート型が人気です。)




プルーンの花
(毎年のことですが、実がなりません。)



タラの芽
 (今晩夕食のてんぷらの分を収穫後)




キイチゴの芽
 (生命力が旺盛でそこここに…)




花の名前不詳
(庭に勝手に着きました・・・調べましょう)
※ どちら様かお教えくださいませ。




レンギョウ 
(もうすでに盛りを過ぎた頃)




こぶし
 (もう仕舞いです。今日の雨で、散り落ちるでしょう)




沈丁花 
(香りの盛りは過ぎましたでしょうか)




花を待つ黄モクレン
(大山レンゲと並んで期待の星です)




月桂樹
(今年こそ実をなんとかしてみたい…)



タラの芽 Ⅱ
(収穫のし損ね。葉っぱの天ぷらも、もちろん美味)




京鹿の子の素敵な緑 
(花も魅力的だが緑も捨て難い)



2008/04/13 撮影



源平桃(花桃)が一輪だけ花を付けていました。
次回はそちらをご紹介できると思います。



2008年4月11日金曜日

その後に思う盗作事件

最近、Google 検索から訪問数が増えたことに気づいた。

もともと泡沫ブログであるからにして、そんなにアクセス数が多いわけでもないから、リンク元のURLにGoogle という文字が含まれていると、非常に目立つのだ。

では、どんな検索キーワードで…と見てみると、「テレビ、小説、新聞」などに続いて「盗作、
オマージュ、パロディ、 トリビュート、インスパイア、リスペクト」などのクロス検索の結果と考えられ、どうも当ブログは後者がヒットされる原因らしい。

ためしに…と、一つ検索してみたら、なんとその組み合わせにおいては、検索結果のトップに表示された。

そして、そこには先に記した盗作事件の記事がインデックスされていた。

まぁ、トップに来たことなど、どうでもいいが(とは言うものの、内心はちょっと感動)、当方のブログなんぞがヒットするとは、何か盗作やその辺りに関する事件でもあったのか、と考えてしまう。

が、改めてこのあたりのことをブログをたどってみてみると、同様の事件が多数あることがわかった。

先の事件の際には、私自身が被害の当事者であったから、そのことだけで周辺の事情など確認する余裕も無かったし、そのことが解決すればそれで落着の雰囲気でいた。

ところが、他の事例における被害者氏においては、たいへん丁寧に事件の内容から、後の経過、処置に至るまでトレースされている例があり、私の対応との違いを見せ付けられた気がする。

私の場合も、「盗作されてるよ」の通報をもらってから決して何もせず、ただ傍観していた訳ではなく、記事の依頼主への通報の他、警告の意を込めて当ブログに事実を報告するなどした。

しかし、他の例によれば盗作者に対する非公開コメントを利用した盗作者本人に対する警告のこと。その警告により該当する記事の削除など求めた様子が記されている。

結果、該当の記事が削除されただけではなく、ブログそのものが無くなっていた例も報告されていた。

なるほど、他の当事者諸氏の徹底的にやっている姿に接して、当方少々恥ずかしくもなった。

しかし、見方によれば、削除の件とて良心の呵責に耐えかねて…の筋書きとも取れるが、穿った見方をすればデジタルデータのことだから、またぞろいずれかのフリーブログで生き長らえている…とも考えられ、デジタルが故の根深さを感じざるを得ない。

中には、その報告記事の時点では「数回の警告にも関わらず削除されていない」というケースもあって、今になって深刻さを痛感した次第だ。

さて、どのような理由でブログにおいて盗作が行われるのか。

盗作した者がどのような立場、出所なのかも分らぬままに想像を巡らしても、ここでは徒労に過ぎないだろう。

しかし、考えるに、従来からの「自分だけの日記」に盗作はあり得ないことで、仮にあったとしても被害者も実害もなく、そもそも盗作とも言えない。

とすれば、第三者が読むことを、当の筆者が予定し認識した上でこそ起こり得ることになる。

「盗んでまで載せるなよ」

と思う裏には、盗むことによる有形無形の利益が潜んでいるからに違いない…とは、浅薄か?

例えば、ブログにおけるネタづまりが言われるが、ネタ集など紹介されている例も多い。

だから、ネタにつまっても、内容までも「イタダキ」の理由が解せぬ。

と、いろいろ考えてみたが、この場限りでは盗作する側の心理にまでは迫れそうもない。

ただ、文章のことだけではなく、画像など平気(か、どうか確かめようがないが…)でブログ、掲示板に貼られている例など、垂直、水平両方向に深さと広がりを見せているには唖然とせざるを得ない。

かつて、ラジオの対談番組を本にしたときのこと。出演者が大勢いたものだから、二次使用の処理についてステーション・出演者のOKどりに苦労したものな…などと、振り返ってみるけれど、そんなこと考えてみても始まるものでもない。

<おしまい>


2008年4月5日土曜日

南信州遠山郷 殿町の茶屋にて

ちょっとした遠出の途中に寄り道。

南信州遠山郷は和田の龍淵寺、
そのすぐそばにある「殿町の茶屋」に立ち寄って、饅頭を買い求めました。

以前に立ち寄ったときは、目的の用を済ませた後のこと、
時間が遅かったものですから売り切れて買えなかった…
というより、売り切れると暖簾をさげてしまうから、
入店さえできなかった、人気の饅頭屋さんです。

もともと、遠山郷は今回の目的地ではなかったのですが、
「この時間ならひょっとして…」
と午前中の随分と早い時間に道を外れて行ってみました。

「今度は早すぎて、まだ、やってない?」
そんな不安をよそに…、今日は暖簾が掛かっています。


帰宅してからゆっくりと撮影会。


本当は、出来立てを店の中で食べるのが一番美味い…
そう、教えられていたのですが。
なかなか、そうも行きますまい。

そんな配慮からでしょう、乾かないようにと一手間、手が掛けられています。


今日は「よもぎ」と「そば」の2種類。
一口大ですから、私はパックリと一気に行くのが好きです。
と、まあ、この辺りはお好みで。


ここでは、私が四の五の並べ立てるより、
ご本人が自ら口にされることをオススメするのみです。

TVのグルメ・レポーターでもあるまいし、
書かないに越したことなし…です。

「ご賞味あれ」

とだけしておきます。

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さて、ここから先は非売品ですから、ご注意ください(笑い)。

ちょうどのこと、お茶を入れて一休みする時間にぶつかったものですから、
お誘いを受けるままに遠慮もせずにお呼ばれしてしまいました。

茶屋のおばちゃんたちの疲れを癒す甘いものなど、番外でご紹介…。


漉し餡で芋干をからめたもの…という解説。
名前は? の質問に…
おばちゃんたち、顔を見合わせ 「???」

これ、売れますよ、ホント。


摘み立てのホウレン草のお浸し。
調味料無しで頂きました。

甘く優しい香りと柔らかな口あたりは、これまでに口にしたことが無い…。
あのザラザラした食感が、歯や舌先に残りません。

隣の畑の方が、
「採れるだけもってきな…」
と。

のどかです。


これも懐かしい。
大豆を甘辛く炊いてあって、ご飯が欲しくなります。



お茶の時間には持ち寄った漬物が欠かせない?

人気ですから…もう、あと僅か!
と思っていたら

「奥にもっとあるに」

と、さらに勧められました。



饅頭屋さんに入って、
饅頭のことそこそこに非売品の報告とは、なんとも妙な展開ですが、
私にそうさせたことこそが
「殿町の茶屋」
の雰囲気を象徴していると言えます。

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馴染みの客でもないのに、まるでご近所さんを招き入れてくれるかのような…
月並みですが、そんな人の好さ、優しさがとても懐かしかった…
久々の遠山郷でした。

「また来てな…」

その一言がうれしい。

「…また、来ます。」



<おしまい>