2008年4月17日木曜日

複製の理由

「複製の理由」とタイトルしたのは、ここでは取り敢えずの対象として、いわゆる国宝級の美術品に関してのことである。

昨日のこと、NHK「クローズアップ現代」の番組上で興味深い採り上げ方をしていたのが、本稿に至った理由だ。

さて、その番組の内容だが、掻い摘んで次の通りである。
つまり、国宝級の絵画や屏風絵などの美術品の保存に関して、それらの複製を作る必要性を述べた上で、さらにその先にある問題点が述べられた。

デジタル技術の進歩により美術品をスキャンして、高精細、高画質でデジタルデータにして保管することが可能になったという。
問題は、そのデータの使い途あるいは管理の方法についてである。

世紀の単位で遡る文化財には既に著作権が存在せず、したがって、その美術品には所有権なりが認められるだけ。したがって、所有者の了解、同意を原則に、著作権に縛られることなく複製ができる。
中には、所有者の同意を得るなどの手続き無しの場合もあるとのことだった。
契約書も無い場合となると、信義則に拠るより他なしなのだが、これも袖にされた由々しき結果なのだという。

番組中で最も印象的だったのが、一部の富に複製品が頒布され、所有され、公開されていることだった。
ある会社の社長室と思しき写真が映し出されたが、そこは、複製の国宝級美術品(ちょっと変な言い回しだが、取り合えず雰囲気で理解を願う)が壁から天井に至るまでの満艦飾だった。

法の遵守を前提に、富が美術品に向けられ、それを所有することには、基本的に口を挟むことはできない。そういう社会システムだから。
だが、「しかし…」と考えてしまう。

貴重な文化財を後世に残すために、紙・木の文化であるわが国においては、複製品を公開しオリジナルを厳重に保管する…。
そのことのためにデジタル技術を駆使することの意義は大きいし、必要性を認める。
しかし、そのデータの使い途が本来の企図を離れたときが問題だ。さらには、デジタルデータが故に何等の劣化も無く、容易に複製の複製、そのまた複製が作成され流布される「危険性」さえもはらんでいる。

何から何まで、法に基づく管理下におくことには基本的に反対だ。しかし、わが国の文化的財産の保護に、国の関与が足りないのでは、と考えてしまう。

番組の後半では、イタリアにおける同様の例として、ダヴィンチの「最期の晩餐」が引かれ、そのオリジナルの公開と保存に関する取り組みが紹介されていた。

そのままわが国に置き換えることはできないと思うが、当該公開・保存に携わる担当氏をして
「オリジナルこそが公開されるために存在する」
という意味で語った言葉が重い。

複製品であろうとも、それを承知で所有したり、飾ったりすることの哀れさよ。

レプリカの存在は、万が一のための止むを得なきオリジナル保存のためと心得よ。

なんとか遊園地の例ではないが、某著作権無視大国のことを、他人事とばかりは言ってはおられまいに…だ。

<おしまい>