2008年4月25日金曜日

そもそも、火が走るわけではない。

「火」とは、「化学的には物質の燃焼により発生する現象」と定義するらしい。

あまりにも、身近に過ぎて、なにも難しい説明をする必要もないと思う。
さらに、人類は火を手に入れたことによって、人類たる根源を得た、とも言われている。

人だからこそ、火が使える、一定の範囲内であればコントロールすることもできる。

ところが、ここ1ヶ月に満たない期間のことだが、火という化学現象に、人間たちは翻弄されている。
制御されてさえいれば無害のはずの化学反応に、まるで人間がコントロールされているようだ。

まるで脚のある「火」がタラップを降りてきて、日本の大地にその第一歩を標し、そして一路長野市に向かっている…といった言われ方をした。
何なのか、その誇張表現。
今日一日の報道に見られる、例の一件に関する大方の姿勢だ。

例の一件とは以って回った言い方だが、当然に北京オリンピックの聖火リレーこと。
(わが国で聖火とはよく言ったもので、英語では単にトーチ…松明「たいまつ」なのだが…。もし、トーチに「聖なる火」の意味を与えたとすれば、それはヒトラーのナチスドイツ、あのベルリン五輪以来のかなり後発的な理由によるはずだ。)

そもそも、あの曰くつきのベルリンオリンピックに際して始まったという、なんとも因縁めいた歴史が、その何たるかを物語っているようにも見えるが、かなりバイアス気味の見方かな?

今回のオリンピックに限らず、その火が消えたらな消えたで、マッチやライターによる化学反応、燃焼と何が異なるのか、私には理解できない。
正確のために記すが、今回のオリンピックだから言っているわけではない。
どこそこの人権問題とか、何とかの弾圧の問題とその化学反応の結果を位置的に移動させる問題とが関連付けられているが、ここでは、そのこととは切り離して論じている。

そのこととの関連まで、ここで論じようとすると、ちょっと荷が重い。
だから、その役目は別の場所に譲ろう。


本論に戻って、化学反応の結果であり、その結果の連続性に対して、さも人格が宿ったかのような特別な扱いをもって報道し、評論するのか。

彼の国が自ら仕掛けた一大プロモーションが、果たして彼の国の内国問題として、その問題に対する言論が国内に集中していることには、そもそも彼の国の政府が企図したところなのではないか…などという穿った見方さえしてしまう。
いわゆる彼の国における国家主義の増長、増進という画された現象だ。
(しかし、その「火」の経路、行く先々で、彼の国が意図しない、もう一方の問題の存在をも喧伝してまわっているとは、何とも皮肉なものだ)

さて、
「話題の化学反応の産物は、無事にその反応の状態を継続して、絶やされること無く継がれていくのであろうか」

反応を継続させることに努力も必要だが、継続を絶たれた反応を回復する知恵を、われわれは備えている。
マッチとか、ライターという知恵は、この場合には知恵とは言わないのかな?
「悪知恵」なのかな?

そんなに、しゃっちょこばらずに、なるようになれば、いいんじゃあない。
もっと、お気軽に、お気楽に。

命懸けて守るなんて…消えちゃったら、
「あっ、消えちゃった」
…なんて言いいながら、
シュッ…、
あるいは、
カチッ…、
はたまた、
シュボッ…てね。

「継がれる」を企図した化学反応が、何らかの理由で耐えたって仕方ないじゃない。


それにしても、3000人ものポリスまで投入して、維持すべき化学反応って、いったい何なんだろう?
まかり間違って、そんな馬鹿馬鹿しい理由、つまり化学反応が途絶したことを理由に、人が責任を問われたり、結果として人生を棒に振ったり、まして誰かが傷ついたり、それが原因で諍いになったり、戦争が起きたり…そんな愚かしいことは、起こり得ない、そう信じたい。

とかく、そうした馬鹿馬鹿しいことを、馬鹿馬鹿しいと理解していながら、我々にはその馬鹿馬鹿しいことを何度となく引き起こしてきた歴史がある。

今回のことにしてみても、自分たちのことを十分に信頼できていない。

それが、なによりも悲しい。