2008年1月13日日曜日

温泉にBGMは要らない…という考察

南信州には市町村が経営の主体になって、あるいは経営に参画するスタイルで運営される温泉が多数ある。

民間の施設を合わせると、その数は更に増えることになる。
草津、有馬、下呂といった「天下の三泉」にみられる温泉ブランドを形成しているとまではいえないが、各泉それぞれが個性的な企画やサービスで、世の温泉好きを楽しませてくれている。

これだけの数があると、行き先を決めるにあたって迷ってしまう。

私の場合は、そのときどきのスケジュールや、その日の気分、あるいは連れの有無、構成など、様々な要素によって、行き先を変えたりしている。

往復2時間以上もの道のりを覚悟で遠方の温泉に向かうこともあれば、ほんの近場の温泉で済ませることもある。
そういった意味で、温泉に関しては多分に浮気性である。


さて、わが家からクルマで1時間と少しの距離に、それぞれ自治体が経営に加わっているといわれる温泉施設が2箇所あって、2つはクルマで10分未満の位置関係にある。

境を接する隣どうしの町村だから、あからさまにはそうは表現していないかもしれないけれど、経営的には確かに互いにライバルといっていいと思う。

この2箇所に限らず、広くは全国の各温泉に、その泉質はもちろんのこと規模、施設あるいはサービスなど、全てが個性的であって当然だし、その個性をして好き不好きがあって当然である。

しかし、温泉がいかに個性的なサービスを提供してくれたとしても、個人的に譲れない一点がある。
その一点とは、タイトルにも記した「BGM」のことである。

具体的には、先に掲げたライバルたる2つの温泉の決定的な違いにみられるのが「BGM」の有り無しということだ。

私は迷わずBGMの無い温泉を選ぶ。
一方の温泉には音の演出がない。
このことが、私にとって何よりのサービスなのだ。

しかし、他の一方は絶え間なくBGMを流している。
たとえばハンドベルでヒーリング・ミュージックを奏でるような、ゆったりとした曲想のBGMだ。
そうした曲想を選んでいることには、それなりの意図があることは理解できる。

ハードロックやパンクでもなく、演歌、浪花節、義太夫語の類でもない。

温泉と音楽で癒されて下さい…とでも言いたげだ。

そうした環境を積極的の好む人、気にならない人が居ても、それはそれとして、そうした嗜好に何ら申し上げることはしない。

申し上げたいのは、余計な音の無い、静かな温泉に、静かに浸かりたい人だって確かにいるということ。

静かに…、
とか、
音の無い…、
と言ったって、録音スタジオのような遮音性能を期待しているわけではないことは明らかであって、当たり前に発せられる温泉ならではの環境の音があって当然だ。

設備も何も要らない。
難しいことではなくて、PAの設備を使って、つまり、スイッチをオフにして、不要な音をPAに供給しなければいい。
ただそれだけのことで、実現できる。

ぜひともBGMが聞こえないと温泉に入った気がしない…という人がいたとして、そうした人と議論して、論破を試みて、結果的にその温泉のBGMを止めさせよう…なんて考えているわけではないので、好き勝手の言い放しかもしれないが。


ところで、提供する側が一方的に良かれと思って放っている音といえば、この温泉の例に限らず、いろいろなところにあると思う。

イヤなら、そこに行かなければ…、それを選ばなければ…、それで回避できる場合はいいのだが、その余地が無い場合は、「音の暴力」といっても言い過ぎではないと思う。

今日も、聞くとは無しに親子の会話や、ご近所の新年会の流れと思われる人たちの会話が耳に届いた。

こうした背景音はぜひとも歓迎だ。


<おしまい>