2008年3月3日月曜日

障子紙における適材とは・・・?、高じて我が適所とは・・・?

「適材適所」ということが言われる。
一般的には、ある組織を想定して、何れかの能力に長けた者を、その長けた能力に相応しいポジションに当てること…という理解だが。

わが家では、年末からここまでの時期に「障子紙における適材適所とは」…を考えさせられる事件があった。
その原因は
のミスジャッジにある。

昨年末のこと、例年のとおり障子の張替えをした。
家人に促されて、手伝うことになったのだが、そのときに何を考えたか、私からトーレーシング・ペーパーを障子紙に…の提案をした。

果たして、トレーシング・ペーパーの強度や、光の拡散性など、以前からインテリアに使えないか…、そう気になっていたので、一度、障子紙の代わりに…試してみようと思っていた。
その試行のチャンスが年末に訪れたわけだ。

張り替えの作法など、細かな所作のことはさて置き、ここで結論を急ぐ。

結果は、従来の障子紙が圧倒的勝利を収めることに。

当然と言えばそれまでだが。
勇気をもって(?)それを試みた者にのみ許される、その体験的な実感に伴う結論だからこそ、今後にそれを試みようとの愚行が予見されるのであれば、

それは絶対に!

やめるべきだ・・・
やめなさい・・・
やめなければならない・・・

そして、あなたの時間と地球的規模の資源の無駄遣いは止めること!


さて、以下にその理由を記す。恥を忍んで。

① 障子紙たる和紙の強度にはかなわない!
いわゆる水貼りをして、貼りはじめ当初のシワを延ばすのだが、延びすぎて…というより紙自体に掛かったテンションんに紙が耐えられない。自らが乾くにしたがって居間に似合わない鋭角的、かつ、金属的な音を発して弾ける…。つまり破れる。

② まるで太鼓の中のよう…
よしんば、①の現象に耐えられたとしても、テンションが掛かり過ぎて、まるで「太鼓」の中にでも居るようだ。聴覚が耐えられない。
私は残念ながら、か幸いなことに太鼓の中にて暮らした経験が無いのだが、しかし、それを想像するに十分な「ライブな音場」が、室内に出現する。

日光東照宮における「鳴き龍」をわが家に借りてきたような、彼の甚五郎ばりの不思議な響きが室内に再現され、日常生活を送るには少々どころか、随分と疲れることになろう。

結果的に、テンションの掛かり過ぎで「破れ太鼓」と化して、そのライブな音場は壊れてしまうことになるのだが、おそらくそのような非日常を望む人は少なかろう…と信じるところだ。

図らずも、和紙の障子が織り成し、繰り広げる優しい音場その他の環境が最適だと確信することになった。

もろもろ、トレーシング・ペーパーを障子紙として採用することに、マイナスの理由を述べ立てたが、ある一面では和紙より優位にあろうかと思われる様々な特性を具有するトレーシング・ペーパーのことだ。
が、用いる先を間違うと、決してその能力を発揮できない…。

したがって、その本来の特性を、障子紙という現場においては誰にも喜んでもらえない…という、まことに不幸な結果になる。
けっしてトレーシング・ペーパーが全性質を以ってして、他に劣っているなどと結ぶつもりは無いのだが、しかし、障子紙という場面においては、断じて好ましくない。
百歩譲って結論は変わらない。見出すべき長所の欠片も無い。


冒頭の適材適所とは、悲しい話だがこのトレーシング・ペーパーの例が象徴するようだ。

和紙でもトレーシング・ペーパーでも、それぞれの素材をそれとして生かせる場所においてこそ活かしたいものだと思う。

ところで、果たして私の適所とは如何に有り?
そもそも適材なる客観的判断が有りや無しや、自らが測れない難しい問題だ。

高じて、果たして廃棄されるにあたり、和紙とトレーシングペーパーは当地の分別で同じなのか…などなどと、たった紙のことなのだが、想像を巡らせては様々を心象に投影してしまった。

素人ゆえの半ばの結論だが、捨てるとき、捨てられるときには分別の要は無い模様。

この妙な安心感は何故なんだろう。


<おしまい>