2008年3月17日月曜日

メタボリック健診に思うこと ~2008年4月スタート~

誤解を恐れずにメタボリック健診について記す。

既にご存知の方も多かろうが、要するにこういうことだ。
この2008年4月から、メタボリックシンドロームに着目した新しい健康診断・指導制度である「特定健診」と「特定保健指導」がスタートするというわけだ。その対象は、国民健康保険や健康保険組合の加入者や被扶養者のうち、40~74歳の受診者となる。

ここでポイントが2つ。
「特定健診」と「特定保健指導」について観てみよう。

まず、特定健診。
これは、健診項目に「腹囲」が追加されることがポイント。
腹囲はいちばん細いウエスト周りではなくて、「へその高さ」で測定する。
男性では85cm以上、女性では90cm以上で内臓脂肪が蓄積していると判断されます。
腹囲と合わせて、①血糖値、②中性脂肪値、③血圧の3つの数値を基準に判定されるそうだ。

では、如何なる場合が該当する…については、専門の各ページを参照されたい。

次に、特定保健指導があるとのことだ。
これには、①積極的支援、②動機づけ支援、③情報提供の3つをして、指導の内容らしい。

①積極的支援は、メタボリックシンドロームと思われる人に対して、医師や保険師などから生活習慣改善の指導が3か月以上にわたって持続的に行われる。面接のほか、電話、手紙、メールなどで指導を受けることができる。
②動機づけ支援とは、メタボリックシンドローム予備群と診断された人に、最低1回の生活習慣改善 指導が行われる。
③情報提供は、腹囲以下に異常がない人に対しては、メタボリックシンドロームと生活習慣に関する情報が提供される。

さて、ここで疑問点を整理する。

まず、特定健診についてだが、随分前から男性85、女性90以上という胴回りのことがシンボライズされて喧伝されてきたので、承知しているつもりだ。ただその頃は、あくまでも個人的な努力目標の目安程度のことであって、私とて真剣に考えたことは無かった。むしろ、血液検査により指摘される内容に耳を傾けていた。
ところが、本稿でも「シンボライズ」と記したが、あまりにも胴囲のことばかりが前面に出すぎてはいないか。
もちろん、胴囲の基準だけではなく血液検査の結果を合わせて、診断そのものは総合的に行われるようだが、目に見えてそうと分かる胴囲の基準をしてメタボリックシンドロームの象徴のように取り扱うことには、その本質を見失いはしないか、の懸念が先に立ってしまう。

男女ともに、身長の高低はあって、しかもそこに体質的なものも加わるわけだから、それを1つのスタンダードで測るという、その基準を定めた発想、根拠が怖いのだ。
確かに、専門家が膨大なサンプルから精緻な統計的手法など駆使しながら、「ここだ!」と引いた線であろうと信じたいが、しかし、誰にでもそうと分かりやすい基準でものを判断したり、区別したりすることの恐ろしさを、歴史上、あるいは私的な日常の中で体験したことはないだろうか。

私の考えすぎかもしれない。
が、体格や体格、身体の形質的な特徴を捉えた上で、さも論理的であるかのようなふりをしながら、しかし実のところは極めて感情に依拠した「相関性」などという言葉まで使って、まるで因果関係があるかのような、こじつけをしてしまったことは無かったか。

健診の対象年齢のことを考えれば、「大人だから…」となるかもしれないが、しかし、それより若年に対して、85、90 の数値はある一定の印象をもって捕らえられることになろう。


そして、もうひとつの疑問が「特定保健指導」のことだ。
これについては、実態がまったく見えない。
なかでも、積極的支援については、私が引いた文章には「指導を受けることができる」となっている。主語は受診者だから、「受ける気がなければ、受けなくてもよろしい」わけで、そうすると指導する側のその指導に対する関与、あるいは指導の水準とはいったいどのようなレベルになるのであろうか。

かつて、ある事業所で従業員の健康診断を実施したとか。その健診には、名前は失念したが「何とか予算」による補助がついて、割安で受けられるとのことだった。
事業所にとっては、健診の費用が削減できてうれしい話で、これで終われば何でもなかった。
ところが、その補助に相当する予算の趣旨とかいう言い方で(あくまでも検診した側つまりサービス提供者がそう言っている限りで、真偽の程はここでは確かめようがないが)、執拗に従業員に対する指導の申し入れがあったそうだ。
本人も会社も、時間が許せばそれを積極的に拒否する立場ではないのであろうが、とにかく一人でも直接面談させて欲しい…の要求だったとか。最後は、人身御供を一人差し出し、しっかり指導を受けたことによって、先方からの追及の手が終息したそうだ。

この例にあるように、指導を受けられる者、行う(べき?)者の目的性が、当初から別を指しているのではないか、という気がしてならない。
まして、その手段たるや「面接のほか、電話、手紙、メールなど」とあったには、失笑してしまった。
私は「熱心な保健指導」で知られる優秀な保健師さんを個人的に存じ上げており、失笑の理由については誤解の無いよう説明しなければなるまい。
要するに、指導の実態が、個人のパーソナリティーやいわゆる献身的な努力によってのみ支えられているようなことがあってはならない、ということだ。

だから、この場合に「指導」とはまことに都合のいい言葉であって、当事者双方が自分に良いように、如何にでも理解できてしまうところが危うい。
そのことのために、予算がつき、その執行された予算の実効を定量的に把握できないことに対する、国民としての不安である。

総論で反対する要素がなくとも、各論で…つまり執行という場面では、
「また、あいまいな」
「もう、だまされないぞ」
そう考えても不自然ではない。

各個人の目安や努力目標程度の認識であったろう「85、90」という数値が、いつのまにか国民の命と健康を守る一大施策を標榜することとなって、それに行政が関与することに様々な不安を禁じえない。

私の場合、昨年の健診で88だった数値だったが少し腹に力入れたら85は切れると思う、今年もその程度の認識の中のことだ。

ただ、血液検査のことは真剣に考えているし、考えざるを得ない。
今年の結果が楽しみでもあり、不安でもある。


<おしまい>