2008年6月24日火曜日

コンプライアンスとモラル

コンプライアンスということが言われる。
いまさら、そのことの重要性に異論を唱えるつもりはない。

ただし、法に照らして形式的にただ遵守していれば、それでいいのか?
私の答えは「No」である。

法令そのものが、大概の場合に一般的なモラルの上に成り立っている、つまりモラルに反するような法令は無いと信じている(信じたい…)のだが、法令違反とはならない法令の穴を突くような行為があった場合に、それが果たしてモラルに反していないと断言できるのか?
こちらも、答えは「No」である。

社会の習慣などの中から生まれて、一般に通用するようになった道徳や倫理あるいは規範といった、ある意味で文章にした場合に必ずといって良いほどに、解釈の違い等によって例外を許してしまう「不明確なもの」、こうした性格のモラルというものを「文章」にして表して、これを遵守すべき基準としようとしているわけだから、そもそもコンプライアンスとモラルとは完全一致のものではないし、遵守すべきとされる幅に解釈の「あそび」があるものなのだと思う。

だから、概して
「まずコンプライアンスを満たしてさえいれば…」
の議論が分かり易くいこともあってか、コンプライアンスへの取り組みが注目されるが、本質的にはモラルの問題なのだと思う。

余談になるが、性悪説はモラルというフワフワしたものを認めないと思うのだが、その性悪説に立つと言われるゲルマン、アングロサクソンの伝統的な文化がコンプライアンスの考え方を体系付け、これを伸ばしてきたという背景を理解できる気がする。10年以上前のこと、ISOの取得に関わった際の感想にも共通しており、根底でコンプライアンスに通じていると思う。

余談はさておき、コンプライアンスが満たされていれば企業の社会的な責任を果たしことになるのか。
冒頭の疑問に戻ってしまうが、まさに社会から企業に求められる期待などに応えることとは、コンプライアンスとは別にあるモラルの領域をも含めた適応の問題なのではないか。

海外の事情には不案内だが、少なくともわが国では、コンプライアンスに違反していなくとも、モラルに反した行為があった場合に、これが問題となり、社会の信用失墜を招き、結果的に自滅していった企業の例を数多く見ている。
(※最近では、船場吉兆における「使い回し」の一件を発端とする同社の末路がその例。「使い回し」は法令違反の問題ではないとされるのが一般的な見解だ。今日のテーマに照らせば、コンプライアンスはOK、でもモラルがNGという好例)

身近にも具体的な例がある。
法律の規程に基づいて、社内規程を適法に作成し、所定の手続きを経て、これを役所に届け出て職印(お墨付き)を貰う。(注:仮に法律に基づく規程ではなくとも、例えば上場審査時に求められる規程整備なども、規程の存在を必要とされるコンプライアンスの一部に含まれものと思われる)
外形的には、社内とはいえ規程は成立し、周知され、役所もこれを認識したわけだから、ある意味で「規程の存在」と「役所への届出」という点におけるコンプライアンスは満たされている。
しかし、法律を根拠とする社内規程が適法に運用されてこそのコンプライアンスであると考えたとき、もし仮に、その運用の実態にまで立ち入って遵守の状況を監視すべき法令を欠いているようであれば、その運用を担保するのはモラルしかない。

この例の場合に、例えば公益通報者保護法もあるのだが、通報者における「通報後」の不利益に対して措置するもので、コンプライアンス違反を防止するに対しては直接的ではない。
さらに、先の例では公益通報者保護法の施行に伴い、社内に「公益通報に関する規程」なるものを整備するための素案作りに携わったことがある。求められて「骨のある実効性を期待する案」と「形式を満たすことを優先する案」と、その意図は不明だが両案を提出したことがある。
結果的に機関決定されたのは後者だった。
実に皮肉な話だ。
コンプライアンスに対する姿勢を形式的に示した例とも解釈することができ、モラルとの関係においては、規程成立の経緯に立ち会った者として考えさせられる。

コンプライアンスとモラルを同じと考える向きは少ないと信じるが、もし万が一、コンプライアンスに違反しないことがモラルに反しないことの証明だなんていう考えがあるならば、それは大間違いだと思う。

企業の社会的責任という観点において、コンプライアンスの域外にある、つまり、モラルに拠るべき領域の方が比較にならないほど大きいと思うよ、ホント。