2007年7月14日土曜日

翻訳で思い出すこと

日本人が単に翻訳をする…とした場合は、おそらく日本語に対するところの「外国語」を日本語にすることをイメージされることが多いように思います。

私の場合はその反対で、ある仕事の関係で「日本語」を「英語」、正確には「米語」に翻訳してもらうことがありました。
アメリカ西海岸への旅行記、つまり現地でのエピソードを日本語で原稿に起こして、それを翻訳してもらう…。
旅をしているのは日本人なわけで、英会話のテキストとはいうものの、なぜ英語にしなければならなかったのか…

今思うと企画そのものに多少、無理があったようにも思いますが。
でも、現地で急な腹痛に見舞われたら…、忘れ物をしてしまったら…、などなど、どちらかと言うとエマージェンシー対応の仕立てになっていたので、それなりに意味があったと思います。

その企画の中でお願いしたのが翻訳会社でした。

そこで感心したのは、出来上がった原稿をひたすら英語に直すだけではなく、結果としてそれは契約外の内容だったのですが、ドラマ仕立てのスキットに対して、こうしてみたら…ああしてみたら…と、予定外の提案が相次いだことです。

最終的には、テキストブックの他にCD-ROMに音の教材として落とす作業があったのですが、担当してくれたバイリンガルの大学院生の方は、手弁当でナレ録に付き合ってくれました。

要するに、オリジナルの原稿あっての翻訳とはいいながら、自分の関わった原稿のナレーションまで見届けよう…いや、聞き届けようという、見上げたプロ根性とお見受けしました。

外国語をビジネスにするということには、ただ読み書きできるということを超えた、言語あるいは異文化(日本文化に対するという意味で)に対する尊敬と愛着あるいは、別の視点からは責任とが必要なのだ、と痛感させられたものです。

日本語だけの私しては、日本語をもっと大切にしなければなりませんね…と考えさせられました。


<おしまい>