2008年2月29日金曜日

「お金の無心」というシチュエーションにおける電報の優位性について

「カネオクレ シンゾウ」

お金の遣り繰りに困って、ご両親に無心するのでしたら、なんて言ったって電報に限ります。
だって、これだけ通信手段の発達した世の中で、相手方に対して比較的スピーディーにしかも一方的に意思を伝えることのできる手段といったら電報をおいて他にありません。

確かに、お相手に気持ちを十分に伝えるのであれば、もっと良い手段が考えられるでしょう。手紙という手段があります。電話という手だってあります。もちろんのことメールもそうです。
「何をいまさら電報なんて、古くさいったらありゃしない…」

双方向コミュニケーションだ、マルチメディアだと少々言い古された言葉も含めて騒々しいなか、うなずけるご意見です。
わざわざ電報を打つとしたら、思い当たるのは結婚披露宴や告別式くらいしかないのは、悲しい事実です。

一流企業の取締役にでも就任したお祝いならいざしらず、係長に昇進したくらいだったり、三回忌の法事がある…、その程度でわざわざ電報を打つことは、まずもってあり得ません。

しかし、こうした電報の形式的な利用法を別にして、電報により実質的な利用価値を追求するのでしたら、そのケースとして「お金の無心」の場合が挙げられます。

この「お金の無心」という限られた局面においてこそ、電報の実質的な存在価値を見出すことができるのです。

だいいち、親子関係のように極めて近い仲であっても、電話を掛けたなら本題に入る前に簡単であっても時候のご挨拶や近況報告の一つや二つは絶対に欠かせません。
当然ですが、電話の目的が「お金の無心」であってもです。


【電報と電話の比較】

プルルルルッ、プルルルルッ、…カチャ…。

「あっ、お母さん…。オレ、オレ…シンゾウだけど。実は五万円送って欲しいんだ…。よろしく頼んだよ。じゃあね」

ガチャッ!

理想的には、このくらい短い会話で用を済ませ、確かな成果を得たいのが「お金の無心」です。

(注:オレオレ詐欺における会話ではありません。)

が、しかし、実際はそう簡単に、理想どおりに事は運びません。

「シンちゃん、元気だったの?」
「ちゃんと食べてんの?」
「お正月はスキーとか、ボードとか言ってたけど…、お盆には帰れるの?」

シンゾウ君から久しぶりに掛かってきた電話のこと。
そりゃあ、お母さまにしたって、シンゾウ君のことを案じています。
矢継ぎばやの質問を浴びせることになるのは当然です。

この間、そう2ヶ月前くらい前の電話では
「いまさら子供扱いはやめて欲しいんだなぁー。もう、電話に出ないよー、母さん、それでいいの?」
そう、軽く脅かしておいて、その先、何を聞いても、
「ああ…、ああ…、それで…?」
ナマ返事しかしなかったシンゾウ君です。

しかし、今回は事情が違います。
いつになく、頑張って答えようとしている、そんな努力のあとが見られます。
そうです。この後に予定している「お金の無心」という本題があるからです。
目的が達せられるまでは、じっと我慢のシンゾウ君です。
こうして、しばらくぶりの近況報告があったうえで、シンゾウ君はやっとやっとの思いで本題に入ることになるのです。

さて、「お金の無心」というシチュエーションにおける、電報の優位性について、もっと深く考察することにしましょう。

「お金の無心」という本題を心に秘めながら、ここで言い出せたならシンゾウ君としてもいい方なのかもしれません。お話の展開によっては、言い出せずに終わってしまう可能性だって十分に考えられます。

「実はサー、どうしても十万円ほどイリヨウがあってサー」

意を決して、遣い慣れない単語まで駆使してこう切り出すまでには、軽く五分や十分は経ってしまっているはずです。

これで、ことが終わりかというと、いやいや、まだまだ続きます。
「シンちゃんの言いたいことは、ワ・カ・リ・マ・シ・タ。でも何に使うの? お母さんにもわかるように説明して…。お父さんに叱られちゃうのよ」
どんなに切迫した事情があったにせよ、無心するお金の多少にかかわらず事情説明というのは骨が折れるものです。

この段階にまで及んで、ビシッと一発で納得してもらえるような説明が付けられずにいると、展開はさらに硬直化し、長期化します。
「ちょっと待って、お父さんに替わりますから…」
「ちょっと待ってはこっちの台詞…、あじゃぁ!」
お母さんとの間で交渉成立と思っていたシンゾウ君です。
お父さんまで出てくることは予定に入っていなかっただけに、この先が思いやられます。

ところが、これが電報の場合ですと冒頭のとおり、まことに簡潔明瞭に、スペース込みでたったの十文字程度でご本人の要求がご両親に伝えられることになります。
読んでおわかりのとおり、ほぼ完璧に要求が提示されています。

「一0マン」とか「二0マン」と、さらに三~四文字書き添えられていたならば、内容的にはほぼ完璧、合格点です。電報における文章としては、非の打ち所がありません。
この一方的な要求の投げ掛け方が、なんとも秀逸なのです。

ご両親にしてみれば、クドクドとなんらの事情も説明されていないので、よりいっそうの不安がかき立てられます。

何がどういう事情で「カネオクレ」にまで至ったのか、シンゾウ君に確認することができないのです。
電話で事情を聞こうと思っても、出られるのか出られないのか、ずっとルス電です。

「高利貸しなんかに手を出すより、家でなんとかするか…」
結果的にこれでいいんです。

電報だけに許される、情報の一方通行というやつです。

「リユウヲセツメイセヨ チチハハ」

こんな返信電報が届くことは、まずあり得ません。

「理由はまたの機会に…」

またの機会って、一体いつのことやら見当もつきませんが、シンゾウ君想いの優しいお母さんとしてみれば、そう無理矢理納得して、いや、納得させて…、とりあえずお金を送る用意をせざるを得なくなること請け合いです。

そして、シンゾウ君が電報を発してから早ければその日のうちに、遅くとも明日、明後日には、電信扱いかそれとも速達の現金書留かなにかで彼の手元にお金が届くことになるでしょう。

どうみても、このケースの場合には電話より電報に分がありそうです。

さて、ここまで電話との比較における電報の優位性を観察してきましたが、次は手紙との比較論を展開してみることにしましょう。


【電報と手紙の比較】

電話の場合に比較してこれが手紙の場合であっても、事情は同じようなものです。


  前略 おふくろ様

  訳あって 至急ご用立て願う 金十万円也

  早々 シンゾウ


手紙のスタイルを採用した場合には、これで済ませようというのは、ちょっと虫が良すぎます。

「お母さんお元気ですか。ぼくは元気です。近頃めっきり秋の風情を感じさせる虫の音が…云々」

稚拙であろうとなかろうと、手紙には手紙のスタイルというものがあり、それは親と子の間であっても、決してそのスタイルを崩すことはできません。
絵文字がタップリの携帯メールならいざ知らず、このケースは手紙です。

「前略と早々の関係」について、やっとのことで呑み込めたシンゾウ君に、文章の内容や構成について過度の期待を寄せることはできません。

「じゃーん、シンちゃんでーす。お久しぶりの登場でーす!」

同好会の仲間内で回し読みしているような「活動の記録」や深夜番組への投稿ハガキならいざ知らず、こんな軽いノリも御法度というものです。

シンゾウ君でさえ、お金の無心をするのに、さすがに「こりゃマズイぞっ」と気づいています。

しかし、よく考えてみれば、自分の気持ちを手紙できちんとお相手に伝えるなどということを、いまのいままで一切したことのないシンゾウ君です。
学校で練習した記憶すらありません。

だって、いまお付き合いしている彼女に愛の告白をしたときだって、お酒の勢いに任せて長時間にわたって電話で口説いて、それで済ませちゃったくらいです。
なんとも簡便、お手軽です。ラブレターを書いた経験なんてないのです。

これじゃ、手紙でお金の無心なんてできるはずがありません。

仮に、やっとのことで手紙に思いをしたためることができたところで、

「父、母が納得できるよう、理由をきちんと説明しなさい。返事を待ちます」

シンゾウ君のところには、間違いなく現金書留ではなくて返事待ちのお手紙が届くに決まっています。
手紙を書こうと思い立ってから、実際に書き始めて、その後にご両親から了解を取り付けるまでには、どう少なく見積もっても一週間、段取りと運が悪けりゃ十日や二週間はかかるものと踏んでおかなければなりません。
そこまで時間が経過しないうちに、あえなく失敗に終わる可能性だって十分にあります。

このように「カネオクレ」の短い文章に込められたシンゾウ君の思いは、電報というスタイルを採用することによって、極めて端的にご両親に伝えられ、これまた、極めて確実に所期の目的を達成することが可能になるのです。

ですから、お金の無心をするのでしたら、そして、その理由が取るに足らない極々つまらない内容であればあるほど、電報という手段を利用しない手はありません。

「早い、安い、面倒じゃあない」

お金の無心について、しっかり三拍子揃っているのが電報です。

あなたのお部屋から115。
軽くボタンを押してみてください。
あなたのメッセージを伝えてくれるやさしい声が返ってきます。

お金の無心には電報です。

高利貸しをご利用になるのも結構ですが、その前に一度お試しになられてはいかがですか。

最後に一つだけ、たいへん重要なことをお話しするのを忘れていました。

「カネヲクレ」

くれぐれも、そう打電しないよう、されないよう、十分にお気をつけください。

「オ」

「ヲ」
たった一字違いで、ご両親の心象に大きな差が生じます。

くれぐれもお大事に。


<おしまい>


2008年2月27日水曜日

That's 雑音

今日、外出の際に、ある店で昼食をとる機会を得た。

当初、そこにと目指していた店の前を通りかかったとき、駐車場が混んでいたから、待つのを嫌う連れの意向で、そこを諦めた。
国道沿いに車で移動し、探しながら次の店に行った。
初めての店のことだが、家族連れと思われる客を中心に、そこそこの入りだった。

さて、食事の内容はともかく、他が最悪だった。
最悪の評価とは、BGMと思しき「雑音」のことである。

その雑音とは有名な歌手の熱唱だった。
「桃色吐息」その他一連の曲。

熱唱のことは当の歌い手の責任ではないことは明らかであり、また、音源には如何ともしがたく、よって雑音たらしめる主な原因は店側にある。
その店側により設定されたボリュームが私の不快感を増幅させている。

音量が過ぎる。
正直に「雑音」と記す。

しかし、なぜに無音の環境をサービスできないのかな。
施すサービスあれば、施さないサービスもありと思うのは当方の勝手か?

運動会において四六時中、音楽を流し続ける愚と同じ。
この手の過剰サービス、思慮無き無粋の垂れ流し。
迷惑するのは客ばかりか。
それとも、迷惑と思わない無粋な客が増えたのか。
さすれば、私が少数派なのか、異端なのか、変人なのか。

そうと知っているならば、訪れることは無い。
であるなら、今回は一見客だからと諦めるしかないか。
二度と行くまい…と、歯軋りするのみ。

家に帰って、その店のクチコミレビューなるものを引いたが、この件、つまり音響について触れているものは見当たらなかった。

私が音に対して度を越して過敏なのか、他によるレビューの際に音に関する別環境であったのか。
それとも、その店にあっては、余程のこと音に鈍感な客ばかりが集まっているのか。


耳を澄ませばこそ聴こえし音を尊ぶ風情を忘れてはなるまいに。


<おしまい>


2008年2月26日火曜日

相合傘考

天気予報で「午後から雨模様」、「降水確率50%」とか聞くと、絶対に傘を持っていかないという男の話を聞いたことがあります。

天気予報を決して信じない偏屈者かと思いきや、さに非ず。
よほどの自信家とみえて、例の古典的な相合傘のパターン狙いの予定行動だったそうです。

しかし、友人が彼の家を訪ねてそこで見たものは、うず高く積まれたビニール傘の山だった…とか。

相合傘の図式に憧れる気持ちは理解できます。
が、そこはやはりお互いが傘を持っていることを前提に、男性側から女性に傘を差し出すのが古典的なルール、手順というものです。

この先、当の女性が差し出された男性の傘を受け入れられるかどうか、そこが二人にとって運命の分かれ道であることは言うまでもありません。
男にとっても女にとっても、下心あるいずれかの者には、ここは吉凶、緊張の瞬間です。

ですから、初めっから
「ボク、傘、忘れちゃった。入れてって」
こうした陽動作戦は、当事者たる女性ならずとも世の女性、あるいは心健やかな男性にとりまして、紛れも無く邪道の行為というほか無いでしょう。

だって、お洒落な女性用の傘は、二人で入るにはあまりに小さすぎますから。


<おしまい>


2008年2月25日月曜日

少雪地帯の「雪かき」に見る当世コミュニティー考

南信州は雪が少ない。

南と冠するだけのことあってか、南北に長い信州のうちで最も少ない地域だ。
だから、「雪深い信濃の…」などの言葉は、当地には馴染まない。
「信州出身です」と自己紹介しておいてから、南信州の雪に関する特殊事情(?)を説明するのに苦労した記憶に事欠かない。

数年前のこと、何を間違ったか一晩で50cm超の積雪…ということが1日だけあった。
それとて、記録によれば私が生まれてこの方、2度目のタイ記録だったそうな。
折角なら1cmでも記録更新して欲しかった。

昨年などは1月7日、当地の行政が主導する成人式当日が雪に見舞われた記憶だ。
ただし、全国的な暖冬傾向のこともあってだろう、昨冬に降雪の記憶はこの日だけだった。

晴れ着を装った娘の写真のうちの1枚は、ボタン雪降る神社の鳥居の前で、紅の蛇の目笠の中だった。
娘もカメラマンも背景という意味においては、稀にみる絶好の材料を得たものだと思う。

ここまでは余談として許されよ。


さて、今年は平年並の雪。
記憶では、昨年末に名古屋からブログ仲間が訪れたときと、今年になって3回、計4回の降雪だ。
昨年中の1回は、さほどでもなかったが、あとの3回は雪かきが必要だった。

ここで申し上げたいのは、その雪かきのことだ。

私が幼い頃の記憶では、まだ若かった父母が、少しでも雪が積もれば雪かきをしていた。

正しくは「雪かき」というより、竹箒で用が足りるほどの少ない量のうちに、回を重ねて掃き散らすという方が当たっている。
「雪掃き」だ。

降雪量にもよるが、1回の降雪で数回に渉る「雪掃き」の繰り返しだったと思う。子供の頃、それを手伝ったことをよく覚えている。

「積もってしまうと掃けなくなる…」
「箒で掃けるうちに…」

雪が止んでから一度で済ませれば…と思える雪の処理を、何度にも分けて作業していたのは、そんな理由だったらしい。
手間を掛けていたのは、その家の勝手だろうから、同じ考えで同じことをせよと言われても、なかなか難しいと思う。

しかし、父母の掛けた手間から得られた結果といえば、確かに雪の少ない公道だった。

その雪掃きされた公道は、わが家の前だけではなく、積もった雪の濃淡こそあれ、地区の公道は同じように雪かきがされていたと思う。
わが家の記憶で記しているが、それは地域一帯に等しく行われていたという記憶に等しいことになる。


そうした記憶があるものだから、自分の家の敷地や通路をはじめ、公の道の雪かきを欠かさない…、否、欠かせない。暗黙のうちに、自分の家の雪かきを必要とする若干の通路と、敷地が接した公道の人一人の通行を確保できる程度は雪かきすることに疑問が無かったし、苦も無かった。だから、実際に雪かきをしてきた。

考えようによっては、名たる豪雪地帯でもないことから、地域ぐるみで組織だった雪かきに人足を出すまでも無かろうことは、理解に難くない。
当地の誰にしてみても、おそらく生命に関わる問題でないと考えられるから(笑)。

仮に何もしないで放っておいたとしても、ほぼ1日程度の日射があれば十分に解けてしまって、舗装した路面が現れるから、目くじらをたてるとこでもないのかもしれない。

しかしである。
自分がそうしているから…といって、他に強制できるものではないことを十分に理解したうえで、敢えて申し上げるが、雪かきをしない家が増えた。

一定の時間内なら、雪かきされている・されていない…は視覚的に歴然と表れてしまう。


年寄りは言う。

「ご近所に申し訳ない」
「雪を掃いてないのは目立つ(から体面が悪い?)」

昔と今は違うと言えばそれまでだが、しかし、誰に言われるともなく公道までも雪を掃く、自分の住まいする地域を住みやすくしたい…そんな気持ちが失われつつあるのかなと思う。

地域コミュニティーの再構築だとか、難しいことを言う物知りが多いが、この件に関する限り、そんな面倒な話ではなく、安全な往来だとか歩きやすくしたい…そんな簡単な話で、実行が伴いさえすれば済むことと思う。

穿った見方をすれば、当地とて地域社会に支障を来たすほどの降雪があれば、切羽詰って全く異なった対応があるのかもしれない。
だから、当地の降雪量が中途半端なのかな(笑)

もう80歳を超える叔父が笑いながら言っていた。
「うちは道に面した玄関間口は狭いが、道に沿って境が長いもんで。余所より多く雪かきせにゃならん」
昨日今日に始まったことではないはずだが、気にする様子も無い。

あまり具合の良くない脚を気にしながら、竹箒を振るっている年寄りの姿を思うと、雪かきに見える地域って何なのか、よく分からなくなる。


<おしまい>


2008年2月24日日曜日

同時進行的【e-Tax】顛末記 - その11/追記 (おまけ) -

先日、最終稿を掲載した後に、本稿と同様に【e-Tax】に関するブログを検索してみた。

ちなみに検索キーを「【e-Tax】 and 顛末」としてGoogleで行った。

結果、2月18日の確定申告開始日より先に、つまり還付申告なら先に行えることから、本稿がスタートするより前に、すでに同様の趣旨のブログが数多くアップされていたことが分かった。

注意深く読んでみると、JAVAにまつわるトラブル(という曖昧な表現に留めるが…)を中心に、苦労談や失敗して諦めた経緯を記したものが多い…という印象を得た。


斜め読みをすると、既に経験者なだけあって、大まかな論調が判断できる。
だから、どうしても「上手くいかなかったケース」を中心に読むことになってしまったと思う。
症状は? 原因は? 同じ症例探しのようだ。
だから、余計にそうした印象を得た大きな理由かもしれない。
残念ながら、読み込んだサンプルを基に定量的なトラブル発生確率を計っていない。
が、どうも上手く行っていないような気がする。

先述の、私に触発されて試みている友人からも
「上手く進まない」
との連絡をもらった。
PCのスキルにして、私なんぞ足元にも及ばない、その友人においてもトラブルらしい。


国税庁が現状把握のために何らかのアクションを予定しているのか不明だが、こうした反響について真摯にユーザーの声を聞くべきだと思う。

税金を投入し、将来に当然のことイニシャルコストの回収を予定しているであろうと信じるからこそ、中途半端に終わらせてはならないからだ。
ただ、自己満足に過ぎる程に過度な完成度を追求することも、これまた税金の無駄遣いになるから、なかなか塩梅が難しい。


さて、
ASPの完成度は確かですよ…
問題はクライアント側の設定にありますよ…
つまり、問題はあなたの側ですよ…

そう言われてしまえばそれまでだが、しかし、従来の通りであればむしろ簡単な手書き作業で終わっていたハズの申告手続きが、そもそも税務的な処理とは全く関係のないところで、納税者の大きな犠牲を伴って成り立っていることを忘れてはならないだろう。

エンピツの芯が折れたなら削り直して、再び書類に向かうことができるが、果たしてPCに起きたトラブルをどれほどの人が自分で解決して、再びキーボードに向かうであろうか。
次の年に、前年のトラブルを思い出しはしないだろうか。


一連の作業に要した総時間のことを考えれば、手書きの方が早かった…という感想を述べているブログもあった。私も経験者だから理解できる。
仮に、来年の申告の際には今年の設定が反映される…としても、それが
「来年もe-Taxで」
と前向きに考える人の掘り起こしに、どれほどの効果があるものやら。

より多くに使ってもらうことを旨とするなら、
例えばだが、収支明細・決算書の作成事前の会計ソフトまでASPにするなどの提案も可能だ。
あくまでも納税者の選択により、一年間の継続使用、かつ、複数年にまたがる記録までも処理してくれるのなら…定期的に当該システムを使用する場面もあろう。
が、現状では結果をワープロ様に所定位置に入力するのみであって、事務処理性能に劣ると言わざるを得ない。
そんな、周辺環境の整備もあっていいかもしれない。

さて、ネガティブなことばかり述べたが、最後に一言。
「かくていしんこく」…と入力すると変換は「確定申告」なのだが、単に「しんこく」と初めて入力した際に「深刻」になってしまったのには、笑えなかった…(笑い)


平成20年確定申告用にどのようなASPが提供されるのか、それを確認する意味も込めて、私は来年に再びe-Taxに拠ろうと考えている。

併せて、一人でも多くの人が、e-Taxを利用することを祈っている。


<おしまい>