2008年3月5日水曜日

PARCOは渋谷に限る

やっぱり、PARCOは渋谷がいい。

だって、渋谷PARCOは渋谷にしかないのですから。

渋谷に次いで後から出てきた○○PARCOや△△PARCO、そこいらのたくさんのPARCOは確かにPARCOです。
が、渋谷PARCOではありません。

当たり前な話ですが、PARCOを語るとき、ここが肝心要です。
軽んじてはいけません。

しかし、どこそこのPARCOについて、

「あそこの○○PARCOはいまひとつ…」
とか
「この△△PARCOはダメだね…」

決して、PARCO同士で品評しようとしているのでもありません。
みんな立派にPARCOなのです。
でも、PARCOと名がついても「渋谷PARCOもどき」であることに間違いありません。PARCOといえば渋谷なのです。

だって、今では当たり前になってしまいましたが、PARCOが世に出たての当時の
パ・・・ル・・・コ・・・
あの洒落た言葉の響き、そして新聞にしろテレビにしろ、あの奇抜な広告の素晴らしさは、どれをとっても渋谷PARCOの広告であって、渋谷PARCO以外のPARCOのものではありません。

そうこうあって、当時は
「PARCOは渋谷を変えた」、
「人の流れを変えた」
とさえも言われ、PARCOはしっかり渋谷に定着してしまいました。

(注:確かPARCOは池袋が先発だったと思うのですが、当時に「池袋を変えたって」いう論議ありました? 少なくとも私の記憶にはありません。)

そのときから渋谷とPARCO・・・、切っても切れないくされ縁で結ばれた相思相愛の仲になったのです。

こんなピッタリの組み合わせって、当時、他にありました?

六本木といえば…、そう、今でもアマンド辺りでしょうか?

新宿なら追分交番(?)、荻窪とくれば教会通り・・・。

その街とは切っても切り離せない、ランドマークというかタウンマークというか、いずれにしても、人々の心の中にはそのようなものが必ずあるものです。

でも、だからと言って
「調布ならどこ?」
とか、
「じゃあ、松本なら?」
と問われても、答えは決してPARCOではありません。
差し詰め、調布は深大寺・・・、松本なら松本城・・・ってなっても、誰も責められないでしょ。

でも、しつこいようですがPARCOは渋谷なんです。
調布や松本ではありません。

「私の街にPARCOがやって来た!」
PARCOが進出したその街は、そりゃあもう大騒ぎです。

PARCOが来たのと同時に、渋谷が近づいて来たような、そんな錯覚さえしてしまうものです。

年齢によっては、なんとか大サーカスがやって来た・・・、あの感覚に近いものがあります。
どこか浮ついた、ソワソワ落ちつきのない、そんな感じです。

しかし、わが街に近づいたものの、やって来たのは渋谷PARCOでもなく、渋谷の街でもなく・・・、紛れもなく、ただのPARCOなのです。

この辺りを勘違いすると、たいへん妙なお話になります。


さて、「PARCOは渋谷に限る」というそのわけを、お年頃のお嬢様とそのお母様の関係を勝手に例に引いて、考察してみましょう。

お年頃の娘さんがいらっしゃいます。快活な明るいお嬢さんとお見受けします。

「お母さん、今日帰りにお友だちとPARCOに寄って、お買い物をしてくるからね」
娘さんが、そう出掛けに言ったとします。

お母さんは当然のこと、わが街のPARCO、たとえば調布PARCOだと勝手に解釈して、妙に安心してしまいます。
お母さんも時々、駅からの帰り道に立ち寄るあのPARCOをイメージしているのです。
しかし、娘さんはそんなつもりはまったくありません。

まず、娘さんの心は、PARCOはPARCOでも渋谷に向かっています。渋谷より先だった池袋なんて言ったって、娘さんには無関係。当然です。
まして、地元の○○PARCOにではないこと歴然です。
ご自宅から近いか遠いかなんて、娘さんには関係ありません。

だって、娘さんが地元の○○PARCOで、天地神明に誓って本当にお買い物をしていたと考えてください。

お買い物のまっ最中に、買い物袋から葉っぱの付いた大根とネギの青いところでものぞかせたご近所のおばさんに出会ってしまいます。

「あ~ら、エミちゃん。お母さんとごいっしょじゃなかったの?」
なぁーんてねッ。
渋谷PARCOでしたら、こんなふうに呼び止められる危険性はまずありません。

お買い物の目的外で、たとえば不埒な気分なんて全然ないのに、たまたま同級生かなにか、とにかく男性の方と所在なくヒラヒラ歩いていようものなら…と。
エミちゃんは考えただけでもゾッとします。

「いえッ、おばさんたらーぁ、この方は…。ッもう、そんなんじゃなくってェー」
「あ~ら、いいのよ、いいのよ…エミちゃんたら。私って、この辺じゃ、お口が堅いことで通っているんだから。知ってるでしょ、ホ~ント。ご安心なさ~い」

おばさんのおっしゃることの何が「ホ~ント」なのか知りませんが、危ないったら。そんな事態にでも陥ったら、もう目もあてられません。

早ければ、いや、確実にその日の晩のうち、遅くとも翌朝までには、エミちゃんはお母さんから矢のような質問を浴びせられることになることを覚悟しておかなければなりません。

ここで、もし仮に幸いなことに、おばさんに現場を押さえられなくても、出掛けにエミちゃんがお母さんに言った
「お友だちと・・・」
という言葉の中身、その真実は…確かに広い意味でお友だちのうちのお一人を指していることは間違いありません。

しかし、そのお友だちの実態といえば、おそらく8:2の確立で男の友だちである可能性が高いでしょう。いーや、可能性というより、もう間違いありません。

となれば、なおさらのこと、エミちゃんは地元の○○PARCOを選択するハズがないでしょう。

エミちゃんの意識の中で、こうして「PARCO」といえば本能的に地元の○○PARCOから遠ざかってしまうことを、誰が責めることできましょう。

そして、ここまで来ると、もはや娘さんのおっしゃっている「お買い物」とは、間違いなくそれに名を借りたデートを意味していると断言できます。

だって、地元の○○PARCOを差し置いて、エミちゃんがわざわざ渋谷PARCOにいること自体、デートであることを証明する動かぬ状況証拠です。
この選択は、エミちゃんの心中がいずれにあるのか、正直に物語ってしまっています。
実はエミちゃんもエミちゃんの彼も、渋谷PARCOを絡めた渋谷の街に、お二人の予想を覆すような、いーやしかし、ある意味で予想通りの展開を心に秘めて渋谷の街、渋谷PARCOに臨んでいる可能性が非常に高いのです。

だから、エミちゃんの地元の○○PARCOじゃダメなんです。
あくまでも可能性の問題ですが。
そんな秘めたる展開を予想(期待?)するのでしたら、地元のPARCOはただのPARCOでしかありません。ご近所のコンビニとどっこいどっこい。
わざわざデート場所をPARCOにセットした意味が無くなってしまうというものです。
待ち合わせだけだったら、どこだっていいじゃん・・・駅前のコンビニで十分。こと足りてしまいます。


これまでにご説明したとおり、PARCOについてお母さんとの間に生じる微妙な間隔のズレ、認識のズレを巧みに突いて、エミちゃんはめでたくもデートを敢行、そして成功とあいなるわけです。

どう見ても、この件に関する限りエミちゃんの作戦勝ちです。
だって、無理もありません。お母さんは地元の○○PARCOができてからというもの、ここ十数年にわたって渋谷PARCOには、そして、渋谷の街には一歩たりとも足を踏み入れておりません、正しくは踏み入れられません。

もし万が一、渋谷に赴かなければならない決定的な要素・・・たとえば大晦日のNHK紅白歌合戦の入場券が手に入ったとか(この場合でも、おそらく今なら原宿経由で会場にアクセスする方法を採るでしょうが・・・)、そんな理由でもなければ渋谷に意識はないでしょうし。
まして、PARCOなんて毛頭お考えの中にありません。

「へー、渋谷にもPARCOがあったのね。大したもんね」
いったい何が大したものなのか知りませんが、いかにもお母さんらしい独善に満ちた身勝手な感覚というか発想です。

でも、よくよく考えてみれば確かにそうなのです。
お母さんのPARCOは、地元のあの○○PARCOで十分なのです。
ひょっとしなくても、同じ駅前に店を構えるスーパー系の大規模店舗よりステータスは数段上・・・、と信じて疑いません。

が、しかしエミちゃんにとってのPARCOはやっぱり渋谷。
お他人様から後ろ指を指されるような、決してそんなやましい目的で渋谷PARCOを利用しようなんて思わなくても・・・、チャンとチャンとお買い物が目的であっても、特に急ぎでない絶体絶命の用でも無い限り、やはり地元の○○PARCOには向かうことがありません。

エミちゃんは訴えかけます。

「おんなじ品物だって、どこで買ったかで、価値がぜんぜん違うのよね!」
お母さんが聞いたら、全然説得力のない主張であっても、エミちゃんは断固として譲りません。

「エミちゃん、ステキな水着が駅前のスーパーにあったわよ」
お母さんを1次情報源とする「耳より情報」なんて、はなっから耳に入いりません。

渋谷PARCOで売られている水着と、□□デパートや▲▲スーパーに並べられている水着とでは、これらが寸分違わず同ブランド、同価格の品物であっても、エミちゃんには映え方が違うとかで、そう固く信じてしまっているようなのです。
まして、○○PARCOとて同じこと。断然、渋谷PARCOなのですね。

でも、エミちゃんのお母さんはもちろんのこと、広く世のお母様方に申し上げます。
決して、エミちゃんをはじめ世の娘さんたちを責めないでください。

お母様ご自身の胸に手を当てて、よーく思い出してみることです。

「エミちゃんの結婚式に着る留袖だけど、絶対に三越と決めているからね。早くいい人、見つけてねッ」
嬉々としてそれに類するようなことを口走った覚えはありませんか?

お父さんと駆け落ち同然で結ばれたお母さん・・・、留袖なんて用意してなさそうです。
近いご親戚でご結婚のことも、まだまだ先のようです。

でも、今から
「三越なら日本橋よね、エミちゃん。ほかじゃないのよね。絶対!」

エミちゃんは言います。
「無理しなくてもいいのよ、お母さん。高い買い物になりそうだったら…」

あぁ、なんとお母さん思いの娘さんですこと。

しかし、ご両親にはまだお話していませんが、エミちゃんの心の中では着々と一つのある計画が進行しています。

お母さんには通信販売かTVショッピングか何かで、そしてお父さんには当然に貸衣装で済ませてもらいたいのです。
「どうせなら、浮いたお金、二人の新生活に回してくれないかなッ」

渋谷でデートしながら、PARCOでウエディング・ドレスのショーウインドを見つめて、エミちゃんはそう思いを巡らせるのです。
「やっぱ、PARCOは渋谷なのよね。ほかじゃないの・・・。絶対に」

かくして新しいカップルの生活の第一歩も、栄えある渋谷PARCOを拠点に始まる模様です。

PARCOは渋谷に限る。

お二人とも、そしてお母さんも、皆さんお幸せに。


<おしまい>


2008年3月3日月曜日

障子紙における適材とは・・・?、高じて我が適所とは・・・?

「適材適所」ということが言われる。
一般的には、ある組織を想定して、何れかの能力に長けた者を、その長けた能力に相応しいポジションに当てること…という理解だが。

わが家では、年末からここまでの時期に「障子紙における適材適所とは」…を考えさせられる事件があった。
その原因は
のミスジャッジにある。

昨年末のこと、例年のとおり障子の張替えをした。
家人に促されて、手伝うことになったのだが、そのときに何を考えたか、私からトーレーシング・ペーパーを障子紙に…の提案をした。

果たして、トレーシング・ペーパーの強度や、光の拡散性など、以前からインテリアに使えないか…、そう気になっていたので、一度、障子紙の代わりに…試してみようと思っていた。
その試行のチャンスが年末に訪れたわけだ。

張り替えの作法など、細かな所作のことはさて置き、ここで結論を急ぐ。

結果は、従来の障子紙が圧倒的勝利を収めることに。

当然と言えばそれまでだが。
勇気をもって(?)それを試みた者にのみ許される、その体験的な実感に伴う結論だからこそ、今後にそれを試みようとの愚行が予見されるのであれば、

それは絶対に!

やめるべきだ・・・
やめなさい・・・
やめなければならない・・・

そして、あなたの時間と地球的規模の資源の無駄遣いは止めること!


さて、以下にその理由を記す。恥を忍んで。

① 障子紙たる和紙の強度にはかなわない!
いわゆる水貼りをして、貼りはじめ当初のシワを延ばすのだが、延びすぎて…というより紙自体に掛かったテンションんに紙が耐えられない。自らが乾くにしたがって居間に似合わない鋭角的、かつ、金属的な音を発して弾ける…。つまり破れる。

② まるで太鼓の中のよう…
よしんば、①の現象に耐えられたとしても、テンションが掛かり過ぎて、まるで「太鼓」の中にでも居るようだ。聴覚が耐えられない。
私は残念ながら、か幸いなことに太鼓の中にて暮らした経験が無いのだが、しかし、それを想像するに十分な「ライブな音場」が、室内に出現する。

日光東照宮における「鳴き龍」をわが家に借りてきたような、彼の甚五郎ばりの不思議な響きが室内に再現され、日常生活を送るには少々どころか、随分と疲れることになろう。

結果的に、テンションの掛かり過ぎで「破れ太鼓」と化して、そのライブな音場は壊れてしまうことになるのだが、おそらくそのような非日常を望む人は少なかろう…と信じるところだ。

図らずも、和紙の障子が織り成し、繰り広げる優しい音場その他の環境が最適だと確信することになった。

もろもろ、トレーシング・ペーパーを障子紙として採用することに、マイナスの理由を述べ立てたが、ある一面では和紙より優位にあろうかと思われる様々な特性を具有するトレーシング・ペーパーのことだ。
が、用いる先を間違うと、決してその能力を発揮できない…。

したがって、その本来の特性を、障子紙という現場においては誰にも喜んでもらえない…という、まことに不幸な結果になる。
けっしてトレーシング・ペーパーが全性質を以ってして、他に劣っているなどと結ぶつもりは無いのだが、しかし、障子紙という場面においては、断じて好ましくない。
百歩譲って結論は変わらない。見出すべき長所の欠片も無い。


冒頭の適材適所とは、悲しい話だがこのトレーシング・ペーパーの例が象徴するようだ。

和紙でもトレーシング・ペーパーでも、それぞれの素材をそれとして生かせる場所においてこそ活かしたいものだと思う。

ところで、果たして私の適所とは如何に有り?
そもそも適材なる客観的判断が有りや無しや、自らが測れない難しい問題だ。

高じて、果たして廃棄されるにあたり、和紙とトレーシングペーパーは当地の分別で同じなのか…などなどと、たった紙のことなのだが、想像を巡らせては様々を心象に投影してしまった。

素人ゆえの半ばの結論だが、捨てるとき、捨てられるときには分別の要は無い模様。

この妙な安心感は何故なんだろう。


<おしまい>


BIZLOG(ビズログ)におけるテーマ選び

子供の頃のこと。
夏休みの宿題のひとつに「日記」がありました。
半べそ掻きながら四苦八苦していた記憶です。
「きょうは(も?)、よくできました」
と毎日のように綴って、休み明けに叱られていたのは誰でしたか?
因果なもので、今回のテーマについて、そんな輩が偉そうに書けることでもあるまいに、なのですが(笑)

いくつになっても、日記がブログに変わろうとも、いざ何を書くのか…ということは、なかなか難しい問題です。

裏返せば何を書いても言い訳であって、正解があるわけではないので、気楽に考えればいいのでしょう。
しかし、少なくとも自分以外の誰かが読むことを前提とした場合には、秘密の日記帳然と何でも自由に書ける、というものではない…そう考えるのが一般的だと思います。

主張すべき考えの論理性、正当性に対する意見や批判のことなどを真っ先に考えてしまうと、論客、著述の方でない限り、多くの場合に筆が進まなくなってしまうことは理解できます。
「だれだれが書いた…」という一点を明らかにして表わすということには、それなりの覚悟が必要だと思うのです。

ただ、正確のため、匿名・筆名で表わすことに覚悟がいらないとしたり、それを問題視しているのではありません。筆名によるからこそ、と思っているのですが、縦横無尽に筆の勢いを感じさせて下さる力強い表現をいくつも存じ上げています。
ですから、匿名性の問題は、それをいいことにモラルの欠如とか犯罪性などの問題として議論されるべきことと思います。
したがって今回のタイトルとの関連ではこれ以上言及しないことにします。


さて、ビジネス目的のブログということを考えると、ブログのオーナーが誰かということを隠す積極的な理由が見当たりません。だから、BIZLOGは匿名性の外ということになります。
コマーシャルのオーナーが明らかにならない表現が果たして存在するのか、私には思いつきませんが、社名や商品認知の向上、企業イメージや信頼の維持・向上、もって、業績向上に資するために、社名など出所を隠すことはあり得ないと思います。
そう考えるとBIZLOGにおけるテーマ選びはたいへん気の重い作業になります。

かつて、別の場所で暖冬をテーマに
「今年は雪が少なくて良かった」
という旨の内容を記したところ、
「雪が少なくて困っている業種もある」
として、お叱りを頂いたことがあります。

この場合は、「暖冬」というテーマに問題があったわけではなく、むしろ、それが与える影響について良し悪し両論に立てなかった配慮の無さこそが問題です。が、このテーマを選んだそのときから、すでに結論をイメージして書き始めていたわけであって、私には「テーマ選びの難しさ」を象徴する一つの例として記憶に残っています。
雪が少なくて良かった…という、私の個人的な感想が本来の目的たる、その企業のコマーシャルに悪い影響を与えてしまったわけですから。

そのようなことを思い出しながら、先ほどBIZLOGのテーマ選びについて、あるブログのオーナーの方と打ち合わせをしてきたばかりです。
季節の移り変わりや地域の催事など、オーナーの方が適宜テーマを選びながら、それを打ち合わせの材料として提供してくださることになりそうです。

苦手なテーマ選びの負担からは解放されたかわりに(笑)、内容に対する責任の重さが増したようです。

というわけで、「BIZLOG(ビズログ)におけるテーマ選び」という当面の重たい問題について、これを今回のテーマに選んでしまった私は、選んでしまったことを悔やんでいるのでした。


<おしまい>


2008年3月2日日曜日

ビジネスシーンにおける円滑な人間関係形成のために

人の名前を呼ぶときに使う、あの「○○チャン」ほど、人と人のつながりに深い感動と潤いを与えるものはありません。

だって、どんどん薄くなっていくお父さんの髪の毛とビジネス社会における人間関係ですが、その人間関係を一発でブッ壊して、そしてまた意のままに関係を再構築することができる、そんな言葉の最終兵器って、名前や名字の直後に付ける「チャン」しかない…そう思っていませんか。

お父さんの髪の毛の問題はさておき、そもそも年齢や肩書きから生まれる上下関係に、ことのほかこだわりたがる日本人のこと。
その旧態依然としたこだわりの構図を打破し、終焉を向えた終身雇用制に代表されるようなビジネス社会における新しい枠組みを構築するには、四の五の面倒くさい経済学の原理やそれら史観に立った歴史的検証、各派ご立派な経営学の理論など必要ありません。
士農工商やカーストじゃあるまいし。

名前や名字の後に「チャン」を付ける…、この簡単な作業さえいとわなければその目的たる新しい枠組みを構築を果たすことができます。

さあ、ひろしチャン、あきらチャン、たかしチャン…それらのチャンが、人間関係に及ぼすプラスの効果とはいったい何なのか、チャンの魅力と秘密に迫ってみたいと思います。

さてここで、ハッキリさせておかなければならないことが一つあります。

もうお分かりのとおり、○○チャンの「チャン」って言ったって、ハイハイしたての赤ちゃんを呼んだりするときの、あのチャンじゃあありません。

まして、クラブのママさんが店の女の子に用を言いつけるときに多用する(らしい)、あけみチャン、みどりチャンのチャンでもありません。

学校を卒業して、かつ、立派かどうかは別問題としてイッパシの社会人となり、いわゆる大人として口が利けるようになった…、なって間もない…、なって随分と時間が経つ…、つまりはそうした男性に対してする「チャンづけ」のことを指します。

もっと事を正確に表すのであれば、親兄弟や親戚筋など関わりの濃淡にもよりますが、概ね四親等までの成人男性親族は除くことにします。つまり、場面の具体例としては柔道部か相撲部か応援団か知りませんが、学生時代に「押忍ッ」ないし「オッす」をやっていた、ずいぶんと体格のいいお兄さん対してだって臆することなく付けてしまう、あの必殺技とも言うべき「○○チャン」におけるチャンのことなのです。


【ケーススタディー その1】

では、先ほどの学生さん例で考えてみましょう。

彼には、移り巡る四季をも物ともせず、年がら年中、黒詰襟に身を包みながら、そして上下関係という細くともたった一本の糸で、鉄より堅いと本人とその周囲の特殊な関係者たち(だけ)がそう信じて疑わない、いわば団結という二文字を保ってきた経験があります。
まるで、修学旅行の土産物かなにか刻まれた定番のような一言ですが、卒業するまでのつい一ヶ月前までは彼は確かにその経験を誇りと信じてきました。

しかし、そんな皆さんに対してまでも「○○チャン」と仕掛けちゃいましょう、というわけです。

まったく無防備な状態で、いきなり

「ねー、○○チャン」

そう言われた本人のショックたるや想像に難くないのですが、この青天の霹靂状態に当のお相手である彼、つまり元黒詰襟を突き落としてしまう…、叩き込んでしまう…、「チャン」にはそんな魔力が潜んでいるはずです。

「A4でコピーね、いのくまチャン。両面で…、たのむよ!」
「オッす」
「押忍は禁句、いのくまチャン」
「…ッ、オッす…です」
「じゃなくてぇー、ハイッでいいの。いい? い・の・く・ま・チャン」
「っオ…、っとっとっと…、の…ハイッ」

新入りのいのくまチャンも、ずいぶん勝手が違って戸惑っている様子ですが、これで結構です。
もう二、三回、オフィスにおける何気ない言葉のラリーが成立しさえすれば、あなたといのくまチャンの関係、つまりオフィスにおける位置関係はあなたの意のまま、安心です。磐石というものです。
年齢あるいは学歴なんていう屁でもないもの、まして間違っても男だ女だ性別なんてものに縛られることは今後に一切ありません。皆無です。

この会話について、いろいろなご意見がおありかと思いますが、決して新入りさんをいじめようとしているのではありません。

ビジネスマナー講座のイントラさんには烈火のごとくお目玉頂戴の超ヒンシュク・トークのサンプルなのでしょう。
が、しかし実践面ではこれでいいのです。

ビジネスマナー講座は初期の新入りさんにこそ受講させられるべきもの、それ以降は実践、体得あるのみ。さすれば、講学上のビジネスマナーが先の例に変遷することを誰の手をもってしても、もはや阻止することは不可能でしょう。

少々脱線しましたが、この言葉のラリーはあなた自身を鍛錬している、そうお考えください。
いのくまチャンとのビジネスにおける円滑な人間関係形成のために。

だって、無駄に先輩風を吹かせるより、いち早くいのくまチャンと同じ目の高さに腰を折り、あるいは、膝を折ることができる、そんな柔軟性こそ今後あなたがビジネス社会に君臨していくための、必要条件として求められているのです。

「おい、いのくま君」

そうやるんだったら、最初っから

「ネー、いのくまチャン」

こちらの方が、数段優れているといえます。
そう思いません?


【ケーススタディー その2】

社内における暫定的な上下関係が同格の場合で考えます。

同格同士の場合は、お互いの親密度を確認し合うことに加えて、彼らに共通した敵対関係にある第三者に対するアピールという点を見逃すことはできません。

「たけだチャン、どう最近…ゴルフのほうは?」
「パットがいまいち…、ブレてんだよね。それはそうと、お噂は聞いてるよ。例の美人レッスンプロの話…。手取り足取りだっていうじゃないか…、うえすぎチャン」

課長同士のたわいもないゴルフ談義ですが、たけだチャンとうえすぎチャン、この二つの言葉を聞いた、おだ課長さんの心中には穏やかざるものがあるはずです。

ゴルフを嗜まないおだ課長さんですが、あのチャン付け…たけだチャン・うえすぎチャンは妙に耳に残ってしまうに決まっています。


【ケーススタディー その3】

先の新入りさんの場合がさらに発展すると、次のようになります。

「いのくまチャン、僕があげたアイアンの調子はどう?」
「バッチリですよ。さすがうえすぎ課長はお目が高い!」

と、まあこんなもんで話は問題なくまとまります。

このやり取りの中でも、双方の親密度の確認はもちろん、それを第三者にアピールすること、そして
「俺に従っていさえすれば、悪いようにしないゾっ」
という、うえすぎ課長さんの気持ちを「チャン」に十分に込めることができます。


【ケーススタディー その4】

次に、親密度効果の亜流として、取引業者さんなどに対して恐縮至極の頼みごとがある場合で考えます。

「こっちも手違いあったんだけど、なんとか納期のほうは予定どおりでいきたいんだけどさ、あべチャン」
「カンベンしてくださいよ」
「そこをなんとか、ねっ。あべチャン…、次の仕事のこともあるし…」
「こんなときだけ、あべチャンなんちゃって。今回だけですよ」

この場合の「あべチャン」は、本当の意味で親密度の加減を調整するのではなく、あくまでも擬似的な使い方です。

それが証拠に、業者のあべサンもちゃんと、そのことを見抜いています。

紆余曲折はあるものの無理難題が受け容れられたなら、それ以降の会話の中では「あべサン」という呼び方に直しても、なんら不自然ではありません。

むしろ、そうするほうが今後の商売上の展開を考えたときに有効かもしれません。

発注者であるとはいっても、本来ならば、こちら側のミスをお詫びしなければならないところですが、そこんところを謝るでもなく曖昧にして、擬似親密感を押し売りする。

「チャン」に頼って波風を立てずに、発注者の意向を通してしまうというやり方です。


【ケーススタディー その5】

「明日のプロジェクト会議の提案書だけど、よろしく頼むよ。ざわチャン」
「ご安心ください。課長」
「やー、助かるよ。ざわチャンがサポートしてくれないと、会議は踊るばっかりで…。全然前に進まないんだよ。いやぁー助かる!」

さて、このケースですが、先ほどまでのケースと多少なりとも雰囲気が異なることにお気付きの方は、中間管理職歴の長いベテランの方とお見受けいたします。

そうです。
中途採用ではありますが、会社の中ではだれもが仕事の能力を認めざるを得ない、そんな「おざわ君」に対して、いまや崩壊し死語と化した終身雇用制度の人柱的存在でもある「ふくだ課長」さんが頼み事をする場合のパターンです。

チャン付けをすることのほかに、念には念を入れて「おざわチャン」を「ざわチャン」と呼び方を縮めているところからも、課長さんのただならぬ心中をうかがい知ることができます。

おざわ君の入社以来、仕事の内容やスピード、上司の評価、客先の評判、どれをとっても

「おざわには、逆立ちをしても絶対にかなわない…」

そう感じて、唇を噛むことが増えてしまった「ふくだ課長」です。

会社における暫定的な地位は課長の方が上にもかかわらず、得体の知れない「おびえ」と「遠慮」から、パブロフの犬的にチャン付けをしてしまう、ある意味でビジネスマンの後天的学習により会得した術に依拠する、悲しいチャン付けの典型的な行為こそが、さわチャンとふくだ課長さんの潤滑油になっているのです。
そのことは、いまさら申し上げるまでもありませんね。


これまで一般的なビジネス社会におけるチャン付けの各種パターンを追ってきましたが、テレビ業界におけるチャン付けについても考察しておきましょう。

万事につけて先取り、先取りの当業界では、かなり以前からこのチャン付け行為を行っておりました。
さすがに先見の明あってか、ここで話題にしているパターンを実践していた、いわばチャン付けのパイオニア的存在といえば、間違いなくテレビ業界なのです。

「さとチャン、いい本を書いてくんないと、オレもう自殺もんよ」
「こんチャンの演出は神がかり…。視聴率でも奇跡を起こしてチョウダイッ!」

それでも足りなきゃ、「先生」だの「巨匠」の飛び道具の一言もご登場を願うことになります。

「先生、少しはこっちにも台本を回してよ」
「(おっと、先生ってオレのこと?)ゴメン、ゴメン、寝る暇もなくってさ!」

「アッそうー。売れっ子だからなー、巨匠は!」
「……(今度はアッという間に、巨匠ってかよ~)」

チャンは言うに及ばず、「センセイ」や「キョショウ」のオンパレード。

局で石を投げりゃ、各分野にセグメントされたセンセイかキョショウに必ず当たるといったところです。

いやはや、十年は先を行くと言われる業界のことですから、近い将来には銀座や赤坂のクラブ以外でも、「にわかシャチョウ」や「にわかカイチョウ」が蔓延することになるのでしょうか。

そこまでいかないうちに、いや、テレビ業界のようにならないうちに、ちゃんとチャン付けで人間関係を正常化しておこうではありませんか。


というわけで、役職抜きの「サンづけ運動」や、かつての「ノーネクタイ運動」改め、今なら差し詰め「通年クールビズ運動」を真剣に展開するくらいなら、同じ意識レベルで「チャン付け運動」を導入してみたらいかがですか?

人事部や総務部のみなさん。大真面目に考えてみてください。
効果テキメンだと思いますよ。


【注意事項】

これまでの「ビジネスシーンにおける円滑な人間関係形成のために」というテーマについて、若干の注意事項を加えます。
それは、女性社員に対する「チャンづけ」には、また全然異なった意味があります…ということ。
くれぐれも使用上の注意を守ってご利用くださいますよう、ご案内します。

使用上の注意については、紙幅の関係上、今日ここで申し述べるに至りませんが、社歴3年以上の常識的な会社人間の方でしたら、何となく勘所を押さえていらっしゃるはずです。
「チャンづけなんて、女・子供のものだから…」
などと軽く考えて誤用すると、えらい目に遭いますから、かえすがえすもご注意ください。

いわゆる、ハラスメントの問題です。
会社においては、セクシュアル…はもちろんのこと、パワー…も関係します。

行き掛かり上たまたまの上役が、単なる会社という閉鎖社会における立場上の脆弱な位置を借りて、コミュニケーションとかをお題目に、あまり馴れ馴れしく女性社員に接しないことです。
当の女性社員が「キモイ」とお感じになられたその瞬間に、
「セクシュアル&パワー」
最強のハラスメント・タッグ。
これに該当する確率は、橋下さんの2万パーセントを軽く超えます。

お大事に。


<おしまい>


2008年3月1日土曜日

枕通

わが家は「枕通」でした。
そもそも、
「枕通」という言葉が有りや無しや、怪しいところでもありますが、雰囲気はご理解頂けるものと思います。

ソバ殻を手始めに、というより基本として、これまでに家族で試した枕の数は知れません。
プラスチックのパイプを1センチに満たない程の長さに切り刻んだもの、その直径のバリエーションを数パターン、それらを詰める量を微妙に調整したり、違う種類同士を混ぜ合わせてみたりして。
低反発といわれる素材もいくつも試してみました。

同じような素材であっても、後頭部から首筋にかけてのカーブに合わせたであろう形状の物や、フラットな物、なんとかガウスの磁石が埋め込まれた物とかまで、ただでさえ狭い押入れの中には、使わなくなってカバーも掛けられていない枕が押し込まれております。

なぜ、これほどにこだわったかと言いますと、寝つきが悪いから、肩が凝るから、安眠できないから、あるいは頚椎に悪い影響があるという噂を聞きつけて…などなど、さまざまな否定的材料を解消するために、あれこれ次々と試すことになっていったわけです。

そうした我が家で、ここ数年の長期にわたって使われておりますのが、「通販生活」の誌上で売られている1万円以上もする枕です。
あらためてネットで調べて、世の中には値段的にもっと高額な枕がありますことを知りビックリしたのですが、ウン万円とかの金額ではないにしろ、枕ひとつに1万円以上も掛けるのは我が家の常識の外のことでした。

裏を返せば、それまでは一つひとつが安い枕だったから、安物買いだったから何回も買い直しができたのかもしれません。

この枕が長期間の使用に耐えている理由としては、

① 経済観念説
高額な枕だから、その価格に比例して使用期間も自ずと長期化している、つまり「元を取らなきゃ」という経済的防衛本能に拠るものされる説

② 高品質説
そもそも枕そのものの品質が高いために、「枕通」たる我が家の厳しい審査基準をクリアし、なおかつ、実質的に使用に耐え得る枕であるという評価に基づいて使用されているという説

二説とも当たっていて、そこそこ影響しあっている感もありますが、いずれか一説と問われれば、使い心地が悪い品物に経済的防衛本能が優れて使用に耐えているとは言い難く、したがって②の高品質説に立ちます。

「その評価は?」
と問われれば、

「良い枕です」
のただ一言。

「寝心地は?」
残念ながら、この問いにはお答えできません。
寝ている当の本人には無理なことですもの。

さて、これまで枕がヘタって買い換えたという経験の無い我が家では、この先この枕こそ使い切って、
「そろそろ買い替えねッ」
という時期がきっと来ると思います。

買い替えの多さに由来する「枕通」を返上です。


<おしまい>


注:イタリアのファベ社が出しているメディカル枕と言われるものです。